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1930年代の阪神タイガースの歴史 | 阪神タイガースの歴史 | 1950年代の阪神タイガースの歴史

1940年代の概要編集

発足間もない日本プロ野球界の中で、大阪タイガースは球界を代表する球団であった。しかし、球団も球界全体も歴史の波には抗えず、多くの名選手が戦争に応召され、そして多くが戦死していった。興行自体が存続の危機の中で、プロ野球界は1944年まで実施された。終戦明けて1946年から、すぐにプロ野球は復活した。まだ、甲子園球場も接収されたままであり、多くの選手が散り、各球団とも戦力がなかなか揃わない環境であった。しかし、野球みる社会の視点も大きく変わっていた。

それまでは、野球と言えば学生がする「遊び」という印象であり、社会的な盛り上がりまでには及んでいなかった。ところが一転戦後になると、日本に駐留した米軍が野球を奨励したこと。戦後の荒廃した国土に「希望」を与える「スポーツ」として野球が一気に広まっていった。そんな戦後復興期の野球ブームの中で、大阪タイガースも藤村富美男や七色の変化球若林忠志を筆頭に、戦前輝きを取り戻していった。

ところが、1949年オフ。やっとの思いで戦争の傷を癒しつつあった阪神に、再び球団を壊滅的な状況に陥しいれる事件が発生する。若林の裏切りと、毎日の大量引き抜き事件である。

戦前・戦中(1945年まで)編集

1940年
  • 9月、英語が敵性語となる。それに伴い、球団名「大阪タイガース」から「阪神軍」に改称される。
  • 8月3日、三輪八郎、対巨人戦で球団史上初のノーヒットノーランを達成
  • 三輪八郎、最高勝率 .762。
1941年
  • 松木謙治郎選手兼任監督、引退および退任。後任は若林忠志が選手兼任監督に就任。
1943年
  • 影浦將の復帰と引退
1939年の応召から無事帰還するも、家業を継ぐためこの年で引退。ちなみに、翌1944年再度応召され、1945年フィリピンで戦死。
  • 三輪八郎、応召。翌1944年、中国にて戦死。
  • 甲子園球場の大鉄傘、戦争資材として供出される。
1944年
  • 阪神優勝
若林忠志等の活躍で、阪神27勝6敗で6年ぶりの優勝をはたす。しかしこの年戦争の影響で、各チーム35試合しか開催できなかった。また各球団の選手も応召され、プロ野球界全体で人材を著しく欠いていた。それもあり、35試合中31試合に若林が登板し、また球団全体で27勝のうち21勝を上げている。この選手不足の苦しい状況は、戦後1950年頃まで続いた。

記録

  • 若林忠志、最優秀選手、最優秀防御率 1.56、最多勝利 22勝、最高勝率 .846。
  • 藤村富美男、打点王 25点
  • 呉昌征、盗塁王 19個
1945年
  • 戦争により、開催されず。

戦後復興期(1945年~1949年)編集

1946年
  • 日本プロ野球は2年ぶり再開
プロ野球再開された。3月25日には「阪神軍」からもとの「大阪タイガース」に球団名を戻し、監督には藤村富美男が兼任する。ただし駐留軍に甲子園球場を接収されていたため、西宮球場が大阪タイガースの本拠地として代用される。また、高校野球も西宮球場で行われた。
  • 復帰選手の流出
兵役についていた藤井勇が、阪神から許可なくパシフィックへ入団するといった事態が起こった。どうも戦後のドタバタを利用したパシフィックの策略であったようである。巨人も2選手同じ事態が起こったため、両球団がパシフィックを提訴。パシフィックの3試合を敗戦扱いにされた。
  • ダイナマイト打線誕生
9月、打撃ランキングにおいて、渡辺、藤村、金田、富樫、土井垣、本堂、長谷川と7選手が入った際、日刊スポーツがこの破壊的な猛虎打線をダイナマイト打線と形容した。さらに別当、後藤を加え1949年頃までダイナマイト打線は続く。

記録

  • 金田正泰、首位打者 .347、最多安打 152本。
  • 呉昌征、ノーヒットノーラン
    6月16日、対セネタース戦にて球団2人目、戦後初。


1947年
  • 大阪タイガース優勝
若林忠志が疎開先の石巻から戻り、選手兼任監督として復帰。その若林やダイナマイト打線が大活躍し、球団4度目戦後初の優勝を果たす。また甲子園もこの年の初め1月10日、接収が解除され、再び使用できるようになる。さらに5月にはラッキーゾーンが設置された。野球自体も戦後の娯楽として急速に人気を集め、少年達の憧れのスポーツとなっていった。

記録

  • 若林忠志、最高殊勲選手
  • 御園生崇男、最優秀勝率 .750
  • 藤村富美男、打点王 71点


1948年


1949年
  • 物干し竿
この年、藤村富美男が物干し竿を引っさげ、大活躍をする。それまで、20数本が精一杯だった本塁打記録を46本とするなど、それまでの打撃日本記録を次々に塗り替えた。ダイナマイト打線がもっとも強力であった年である。
  • プロ野球再編問題
毎日(現、千葉ロッテマリーンズ)など新規加盟を望む団体が増え、その扱いを巡りプロ野球再編問題が勃発。結果的には、セ・パ2リーグ制に分かれ、12月、セントラル野球連盟発足される。再編問題にともない、タイガースは毎日の激しい怒りをかい、若林などの主力選手の3分の2を大量に引き抜かれる。これにより、全盛期のダイナマイト打線は突然消滅した。監督には松木謙治郎が再就任する。[1]

記録

  • 藤村富美男、最優秀選手、本塁打王 46本、打点王 142点、最多安打 187本。


参考情報編集

ウィキペディア編集

各選手編集

年度別スポーツ記事編集


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