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阪神タイガース
会社名 株式会社阪神タイガース
創設年度 1935年
所属リーグ
セントラル・リーグ
歴代チーム名
  • 大阪タイガース(1935年 - 1940年途中)
  • 阪神軍(1940年途中 - 1944年
  • 大阪タイガース(1946年 - 1960年
  • 阪神タイガース(1961年 - 現在)
本拠地
阪神甲子園球場
Summer Koshien 2009 Final
収容人員 47,808人
フランチャイズの遍歴
永久欠番
テンプレート:Nowrap begin10:藤村富美男テンプレート:!wrap11:村山実テンプレート:!wrap23:吉田義男テンプレート:Nowrap end
獲得タイトル
日本一(1回)
1985
リーグ優勝(9回)
テンプレート:Nowrap begin1937秋テンプレート:!wrap1938春テンプレート:!wrap 1944テンプレート:!wrap1947テンプレート:!wrap1962テンプレート:!wrap1964テンプレート:!wrap1985テンプレート:!wrap2003テンプレート:!wrap2005テンプレート:Nowrap end
成績(タイトル以外)
日本シリーズ出場(5回)(太字は勝利した年)
テンプレート:Nowrap begin1962テンプレート:!wrap1964テンプレート:!wrap1985テンプレート:!wrap2003テンプレート:!wrap2005テンプレート:Nowrap end
クライマックスシリーズ(3回)
(太字は勝利した年、斜体は第1ステージ敗退)
0勝3敗
テンプレート:Nowrap begin2007テンプレート:!wrap2008テンプレート:!wrap2010テンプレート:Nowrap end
球団組織
オーナー 坂井信也阪神電気鉄道代表取締役社長
運営母体 阪神電気鉄道
阪急阪神ホールディングス傘下)
監督 真弓明信

阪神タイガース(はんしんタイガース)は、日本プロ野球球団で、セントラル・リーグの球団のひとつ。現存する日本のプロ野球球団では読売ジャイアンツに次ぐ古い球団である[1][注釈 1]

概要 編集

運営法人は株式会社阪神タイガース。運営母体(親会社)は阪神電気鉄道阪急阪神ホールディングス傘下)。兵庫県保護地域とし、同県西宮市にある阪神甲子園球場本拠地としている。二軍ウエスタン・リーグ)の本拠地は、同市にある阪神鳴尾浜球場

実数発表となった2005年以降、公式戦での年間観客動員数300万人以上を12球団で唯一[2]動員し続ける人気球団であり(2010年まで。但し2008年は年間300万人割れ)[3]、兵庫県に隣接する大阪府でも、大阪府を保護地域とするオリックス・バファローズを上回る人気を得ている。

球団の歴史 編集

テンプレート:基礎情報 会社

戦前期・黄金時代 編集

1934年末に大日本東京野球倶楽部、球団名「東京ジャイアンツ」(現 読売ジャイアンツ)が設立された。東京ジャイアンツの親会社である読売新聞社は、数チームで職業野球リーグを結成したいと考えていた。特に東京大阪名古屋三大都市圏で試合を行うことを目指していた。その誘いを受けた阪神電気鉄道が、当時日本最大の球場であった甲子園球場を本拠地とした球団を設立することとなった。

1935年10月22日門前眞佐人との入団契約[4]を皮切りに山口政信藤村富美男藤井勇といった甲子園のスター選手と都市対抗野球の強豪・大連実業の松木謙治郎らを集め、12月10日に「株式会社大阪野球倶楽部」、球団名大阪タイガース(おおさかタイガース)が発足した。

1936年にも、1月9日に川崎コロムビアの若林忠志2月28日立教大学景浦將など有力選手と契約し、同年4月19日の球団結成記念試合までに17名の選手を獲得した。2月5日には東京ジャイアンツ、名古屋軍阪急軍金鯱軍らと共に計7球団で日本職業野球連盟を結成している[1]。これは現在の日本野球機構の源流にあたる組織である。

1936年の公式戦は春(第1回日本職業野球リーグ戦)・夏(連盟結成記念全日本野球選手権)・秋(第2回全日本野球選手権)の3シーズンに分け、東京・大阪・名古屋の各都市圏でいくつかの大会を開催する方式で行われた。最初の春シーズンは、連盟結成披露試合として甲子園球場、鳴海球場宝塚球場にて3大会が行われた[5]。巨人がアメリカ遠征を行っていて出場しておらず、金鯱軍も途中内外遠征を行っているため、シーズン通しての優勝は決定しなかった。

夏、秋各シーズンでは各大会1位になった回数でシーズン優勝を決める勝ち点制だった。夏シーズンの名古屋大会で1位になった大阪タイガース[6]は、テンプレート:要出典範囲。また親会社同士が競争関係にある阪急軍に勝てなかったことから、初代監督森茂雄が解任され、石本秀一が監督に就任した。同年秋、大阪タイガースは24勝6敗1分の成績を残し、シーズン優勝を決める勝ち点が2.5と東京ジャイアンツと並んだ。しかし、同年12月に洲崎球場で行われた優勝決定戦で、1勝2敗と惜敗した[7]

1937年秋、1938年春には御園生崇男に加えて37年春から西村幸生が加入したことにより安定した投手陣と、松木、山口、景浦、藤井、田中義雄らの強力打線を擁して、プロ野球史上初の2シーズン連覇を達成した。さらにこの2年間は、春と秋のシーズン優勝球団の対決で年度優勝を決定していたが、2年とも対戦相手となった東京ジャイアンツを破り、年間優勝二連覇を達成した[8][9]。このように、大阪タイガースは第二次世界大戦前〜戦中は常に東京ジャイアンツ(1940年に「東京巨人」に改称)と優勝争いを繰り広げた強豪チームであった。

1940年9月25日、日本の戦局悪化により日本野球連盟の方針で敵性語である英語の使用禁止を受け、大阪タイガースは球団名を阪神に改称した。軍の召集により選手数が不足する苦しい状況で、1944年には監督兼主戦投手の若林忠志(当時37歳)が35試合中31試合に登板してタイトルを総なめにし、3度目の優勝を遂げた[10]。戦争が激化するなか、1944年の総進軍大会、ならびに1945年1月の正月大会(非公式大会)に「猛虎(阪神と産業の合同チーム)」の名称で参加したのを最後に、同年3月に活動を停止した。

戦後期(1946年 - 1959年) 編集

第二次大戦後、日本のプロ野球は1945年11月の東西対抗戦(非公式大会)より復帰。1946年3月に球団名を大阪タイガースに戻した。

1947年、若林が44年と同様に投手兼監督として最高殊勲選手賞(MVP)を受賞する活躍をみせ、戦後初、通算4度目の優勝を飾った。1番・呉昌征から始まり金田正泰、藤村、土井垣武などリーグ屈指の強打者を並べた打線は、「ダイナマイト打線」と呼ばれた。特に4番だった藤村は、物干し竿と呼ばれる長いバットを用いて本塁打を量産し、「ミスタータイガース」と称された。1949年には、チーム順位が6位にもかかわらず藤村が最高殊勲選手賞を受賞した。

1949年オフの新球団加盟問題では、当初は毎日オリオンズら新球団の加盟に消極的ながら賛成していた。しかし最終的には反対派にまわり、2リーグ分裂に際して読売ジャイアンツなどと共にセントラル・リーグを創設した。阪神に裏切られた形となった毎日は、戦力確保のためにタイガースの選手を集中的に引き抜いた。監督兼主戦投手の若林を始め、打撃、守備の中心である呉(1番中堅手)、別当薫(3番右翼手)、土井垣(5番捕手)、本堂保次(6番二塁手)ら6名が毎日に移籍した。また別府星野組の左腕投手・荒巻淳もタイガース入団が内定していたが、毎日に奪われている。さらに遊撃手長谷川善三西鉄クリッパースへ、門前眞佐人大洋ホエールズへ移籍し、ダイナマイト打線は崩壊した。

セ・リーグ元年の1950年、阪神は若林に代わり松木が監督に就任し、毎日に引き抜かれずに残留した藤村、金田、後藤次男藤村隆男梶岡忠義白坂長栄らを中心にチームを構成して前年を上回る4位という順位を確保した。しかし新規に加盟した球団を除けば最下位で、レギュラーの3分の2が流出した影響は深刻だった。

一方、チームの再建のため、ファームの結成や本格的なスカウト制度の導入などの改革により、世代交代の準備を進めた結果、1950年代には吉田義男渡辺省三小山正明田宮謙次郎などの若手選手達が次々と主力になり、好成績を収めた。しかし投打が噛み合わず、水原茂監督率いる読売ジャイアンツが黄金時代の真っ直中にある中でタイガースは優勝から遠ざかることになった。</br>この間、松木監督は1954年限りで退任。球団は後任にプロでの経験がなかった岸一郎を起用してファンやマスコミを驚かせたが、岸は主力選手との対立や成績不振から1955年5月中旬に病気療養を名目に休養。藤村富美男が監督代行となり、シーズン終了後には正式に兼任監督となる。しかし、1956年のシーズン終了後には、一部の選手が藤村監督の退任を求めて球団側と対立する藤村排斥事件と呼ばれる内紛が起き、解決までに2ヶ月近くを要した。藤村が監督専任となった1957年は巨人と激しく首位を争ったが1.0ゲーム差で優勝を逃す。シーズン終了後、球団は監督を藤村から田中義雄に交代させた。藤村は現役に復帰するが、1958年限りで引退し、背番号10は阪神初の永久欠番となった。

1952年フランチャイズ制度の正式導入に伴い、保護地域が兵庫県となった。

1959年6月25日の対巨人11回戦は、プロ野球史上初の天覧試合となった。試合は藤本勝巳の本塁打と、小山 - 村山実の継投で優位に進めるも、9回裏に長嶋茂雄の放った左翼ポール際の打球を本塁打と判定され、4-5で惜敗した。

2度のリーグ制覇(1960年代) 編集

1961年4月1日に社名を「株式会社阪神タイガース」、チーム名も阪神タイガースに変更した。しかし成績が低迷した上に、主力選手と度々衝突を繰り返した監督・金田正泰がシーズン中に解任されるなど、チームは混乱した。金田の後任として、巨人時代に7度のシーズン優勝を誇り、当時ヘッドコーチを務めていた藤本定義が監督に就任した。

1962年、藤本の下、小山・村山の両エースの力投と遊撃手・吉田、三塁手・三宅秀史、二塁手・鎌田実らによる守りの野球で2リーグ分裂後では初となる通算5度目のリーグ優勝を果たした。日本シリーズでは東映フライヤーズと対戦した。村山先発で2連勝した後、3戦目にも村山を無理にリリーフ登板させたが打ち込まれ引き分けに終わったことが響き、その後4連敗。結果4敗1分で敗退した[11]

1964年、エース小山と大毎オリオンズの4番・山内一弘とのトレードを成立させて打撃を強化する一方、ジーン・バッキーらが小山の穴を埋め、6度目の優勝を果たした。大洋ホエールズがあと1勝すれば優勝という絶体絶命のピンチに追い詰められながらも、最後に9連勝で逆転優勝を決めた奇跡的なシーズンだった。しかし、東京オリンピックの影響で早く始まった日本シリーズでは、南海ホークス相手に先に王手を掛けながらジョー・スタンカに2試合連続完封負けを喫し、3勝4敗で惜敗した。

迷走から日本一へ(1970年 - 1985年) 編集

1970年、村山が選手兼任監督に就任。江夏豊田淵幸一の黄金のバッテリー、吉田からレギュラーを奪った藤田平といった個性的で人気と実力を兼ね備えた選手が揃ったが、王貞治長嶋茂雄ら群を抜いた戦力を持つ巨人が絶頂期を迎えており、太刀打ちできなかった(1970年2位、1971年5位、1972年2位)。1971年のオールスターでは、江夏が9者連続奪三振を記録。1972年に村山が監督の肩書のまま投手に専念したため、金田正泰が監督代行を務めている。村山はこの年限りで引退した。

1973年、金田が復帰して9連覇を目指す巨人と激しい優勝争いを行い、残り2試合で1勝すれば優勝というところまでこぎつけたものの、中日球場での中日ドラゴンズ戦では、先発・星野仙一を攻略できずに2-4で敗戦。甲子園での最終戦でも0-9と完敗して巨人の優勝を許した。1974年は田淵が本塁打を量産し、オールスター戦時点では首位に立った。しかし、夏の長期ロードで大きく負け越して後退、最終的にはBクラスの4位でシーズンを終える。シーズン後に金田は退任。

1975年、吉田が監督に就任。田淵が王を抑えて本塁打王を獲得するも、江夏の不調などから3位に終わった。オフに江夏を江本孟紀島野育夫らとのトレードで南海へ放出(江夏はのちに広島へ移籍)。1976年は当時新記録のシーズン193本塁打など打撃陣が好調で、ハル・ブリーデンマイク・ラインバック掛布雅之らの活躍で巨人と激しく優勝争いを演じるが、結局2位に終わる。

1977年も序盤は好調だったが、対中日戦で8勝18敗と負け越したことが大きく響いて4位に終わる。後藤時代の1978年には、球団初の最下位に沈み、後藤は責任を取る形で辞任した。オフに小津が球団社長に就任すると、低迷するチームの改革を図るために大規模な改革が必要と考え、田淵・古沢憲司西武ライオンズ竹之内雅史真弓明信若菜嘉晴竹田和史との交換トレードで放出。さらに空白の一日事件で巨人がドラフト前日に江川卓とドラフト外で入団契約しようとすると、これに対抗してドラフトで江川を強行指名した。しかし、巨人入団を強く望む江川との交渉は難航し、結局は日本野球機構コミッショナー金子鋭(当時)の指示、いわゆる強い要望により江川を巨人に移籍させ、その見返りとして巨人のエース・小林繁を獲得した。

1979年ドン・ブレイザーが監督に就任。掛布が48本塁打を放ち、小林が古巣・対巨人戦8勝を含む22勝を挙げるが、8月下旬に南海から移籍した江夏を擁する広島東洋カープに離されて4位に終わる。

1980年、新人の岡田彰布の起用法を巡る対立などでブレイザーが辞任。中西太安藤統男が監督に就任したが、チーム成績は3-5位が続いた。

1985年、吉田が監督に復帰。1番・真弓、3番・バース、4番・掛布、5番・岡田らの強力打線(第2次ダイナマイト打線)が活躍し、特に4月17日の対巨人戦(甲子園球場)ではクリーンナップトリオがバックスクリーン3連発を放って開幕ダッシュに弾みをつけた。このシーズンは最終的に219本塁打を記録し、2004年に巨人に破られるまでセ・リーグ記録だった。特に阪神初の三冠王に輝いたバースは本塁打が54本と、巨人の王のシーズン最多本塁打記録に迫る活躍をしたが、シーズンの最終2戦で、記録保持者の王が監督として率いる巨人に敬遠攻めをされ、記録更新を阻まれた。翌日のスポーツ報知は、“バース、記録達成失敗”との見出しで記事を載せ、「自分は敬遠するよう指示しなかった」という王監督のコメントも掲載された。ただ、元巨人のカムストック投手が、帰国後に米国のスポーツ誌のインタビューに解答したところによれば、試合前に巨人の全ピッチャーに「バースにストライクを1球投げるごとに罰金100万円」という脅しが出ていたという。当時、巨人の親会社である読売新聞社には阪神ファンからの抗議が殺到した[注釈 2]

夏場まで首位を快走していたが、8月12日に発生した日航機墜落事故で、当時の球団社長だった中埜肇が急逝するという不幸に見舞われた。訃報を受けた吉田はショックを受け、選手全員とユニホーム姿で霊前に優勝を誓った。このシーズンは、強力打線に加えて中西清起福間納山本和行らのリリーフ投手陣も大車輪の活躍をみせ、10月16日の対ヤクルトスワローズ戦(神宮)を接戦末に引き分けに持ち込み、21年ぶりのリーグ優勝を果たした。11月2日には対西武戦(日本シリーズ第6戦、西武球場)で悲願の日本一を達成した。MVPとなったバースは、翌年も三冠王を獲得した。

第一次低迷期(1986年 - 1992年) 編集

1986年、バースがシーズン打率.389・シーズン長打率.777・7試合連続本塁打・13試合連続打点の日本新記録をマークして大活躍したが、掛布と主軸投手・池田親興の負傷による長期戦線離脱、さらに岡田などの主力選手の不振が影響し、夏のロードで広島・巨人との優勝争いから脱落して3位に終わった。1987年は投手陣崩壊に加え、掛布・岡田の不振で最下位となり、吉田は監督を辞任した。この年の勝率.331は球団史上最低勝率である。

1988年、村山が監督に復帰。少年隊トリオと呼ばれた和田豊大野久中野佐資を登用するなど若手への世代交代を進めたが、バースの帰国、代わって入団したルパート・ジョーンズの故障、掛布の引退が重なって2年連続最下位。1989年は新外国人のセシル・フィルダーが活躍するも、三振してバットを叩きつけた際に骨折して帰国。順位は5位で、辛うじて3年連続最下位は免れたが、シーズン中から浮上した監督問題で村山は辞任した。

1990年中村勝広が監督に就任。前ヤクルトのラリー・パリッシュや岡田が5月中盤まで好調だったが、投手陣はエースのマット・キーオが怪我で退団、規定投球回に到達したのは5勝11敗の猪俣隆と4勝13敗の仲田幸司のみという惨状で2年ぶりの最下位。1991年も開幕5連敗、6月に10連敗を喫するなど、開幕から55試合で15勝40敗と成績は振るわず、結局2年連続の最下位となった。後半戦は猪俣・葛西稔といった若手投手が台頭し、5連続先発投手完投勝利を収めた。

1992年、衰えが見えていた主力の岡田や真弓らに代わり、それまでほとんど実績が無かった亀山努新庄剛志の両外野手に加え、和田・トーマス・オマリージム・パチョレック八木裕らが活躍。特に亀山と新庄の台頭は「亀新フィーバー」と呼ばれた。甲子園のラッキーゾーンが撤去されて外野が広くなったこともあり、先発の中込伸湯舟敏郎野田浩司、中継ぎの弓長起浩、さらに抑えの田村勤ら投手陣も奮起してヤクルトと優勝争いを繰り広げ、巨人と同率ながら2位となった。

第二次低迷期(1993年 - 2002年) 編集

1993年、外国人枠を巡ってパチョレックが退団、昨年絶好調だった投手陣も崩壊し4位に終わった。この年には野田と交換トレードで獲得した松永浩美が、FA宣言で福岡ダイエーホークスへ移籍した。1994年はFAで石嶺和彦を獲得。新人の藪恵壹オリックス・ブルーウェーブから移籍の古溝克之が活躍してシーズン後半まで首位争いに加わったが、終盤の7連敗が響き2年連続の4位。同年オフ、長打力不足などを理由にオマリーを解雇した。

球団創立60周年を迎えた1995年にはFAで山沖之彦を獲得。開幕から和田、石嶺といった日本人打者の不振もあって極度な成績低迷が続き、中村が監督を辞任。藤田平が監督代行で指揮を取るも球団ワースト記録となる84敗を喫し、4年ぶりの最下位に終わった。同年オフ、真弓が引退した。

1996年、藤田が正式に監督へ就任。怪我の亀山に代わり桧山進次郎が台頭するも、チームは開幕から低迷。5月終了時点で借金15と早々にペナントレースから脱落し、最終的には2年連続最下位となった。新庄や主力選手との確執もあって、藤田は監督を辞任した。

1997年、吉田が3たび監督に就任。中盤まで上位を狙える位置にいたが、主力として期待していたマイク・グリーンウェルが突然退団・帰国し、新庄ら主力選手の不振も影響して失速、5位に終わった。オフに久慈照嘉関川浩一とのトレードで中日・大豊泰昭矢野輝弘を獲得。

1998年は、新人の坪井智哉が奮闘、更に同年5月26日に川尻哲郎が中日戦で矢野とのバッテリーでノーヒットノーランを達成したものの、アロンゾ・パウエル、大豊ら主力打者が不振。8月には球団ワーストとなる12連敗を喫するなど、2年ぶりの最下位となり、シーズン後に吉田は監督を辞任した。

1999年は、前ヤクルト監督の野村克也が監督に就任。更に西武から佐々木誠を獲得し、6月には一時首位に立ったが、先発投手陣の不振から徐々に失速、9月には2年連続で球団ワーストの12連敗を喫し、最下位に終わった。

2000年は、ヤクルトからカツノリを獲得する等の補強を行い、4月に9連勝して首位に立ち、5月には大阪近鉄バファローズからトレードで吉田剛西川慎一を、6月には日本ハムから金銭トレードでマイカ・フランクリンをそれぞれ獲得。吉田がいぶし銀の活躍を見せ、さらに新庄剛志が自己最高の28本塁打を放ったが、トニー・タラスコら外国人打者の期待外れや前年に続いて先発投手陣の不振が響き、結果は3年連続の最下位。オフに新庄がFAでニューヨーク・メッツに、大豊が中日に出戻り移籍した。また、選手の新旧交代も進み北川博敏湯舟敏郎山崎一玄を近鉄へトレードで放出し、佐々木誠・フランクリンらが退団した。

2001年井川慶が防御率2位の活躍、濱中治藤本敦士らの台頭、赤星憲広が盗塁王・新人王を獲得、更に交換トレードで谷中真二を西武、酒井弘樹を近鉄からそれぞれ獲得、更にはエドワード・ペレスイバン・クルーズら外国人選手を獲得、中盤にはトム・エバンスを獲得して戦力補強も行うも、エバンス以外の外国人打者の期待外れ、井川慶以外の先発陣の不振、酒井が1軍未登板もあって、球団創設以来初となる4年連続最下位。シーズン後に吉田剛が引退し、酒井弘樹が退団し、塩谷和彦をトレードで放出するなど選手の新旧交代が進んだ。監督の野村はチームの柱となる選手の獲得を球団に要請するも金銭的な理由で断られ、12月5日、結局野村は、成績不振に加えて夫人・野村沙知代の脱税容疑での逮捕の責任を取るという事で会見し監督を辞任した。

2002年、前中日監督の星野仙一が監督に就任。オリックスからジョージ・アリアスを獲得し、FAで日本ハムから片岡篤史、交換トレードでオリックスから斉藤秀光が加入、更にはデリック・ホワイトらの外国人選手を獲得。開幕7連勝と好スタートを切って首位争いに絡んだが、矢野・赤星がケガで離脱。吉本亮が矢野の代役を果たすも夏場以降は巨人に圧倒されて4位だった。しかし巨人との直接対決の試合で、マジック対象チームのヤクルトが横浜ベイスターズに敗れたため巨人の優勝が試合中に確定していたものの、劣勢だった試合を延長戦の末サヨナラ勝ちしたため、巨人側は「試合に負けて原辰徳監督を胴上げする」という珍事になった。星野はシーズン中にエバンスをトレードで西武へ放出し橋本武広を獲得、同オフには所属選手の解雇・放出を断行した一方、広島からFAで金本知憲日本ハムから下柳剛野口寿浩らをトレードで獲得。更に元ヤンキースの伊良部秀輝、そしてジェフ・ウィリアムスを加入させるなど人脈面での手腕を発揮した。

猛虎復活(2003年 -) 編集

2003年は開幕より快進撃を続け、優勝マジックをセ・リーグ史上最速となる7月8日に点灯させ、9月15日に18年ぶりのリーグ優勝を果たした。日本シリーズ福岡ダイエーホークスと戦い、第7戦までもつれ込んだが3勝4敗で敗れた。この対戦は互いにホームグラウンドで全勝したため、内弁慶シリーズと呼ばれた。また、この試合はテレビ東京系列で29年ぶりの日本シリーズ中継として放送された。シリーズ終了後、星野は健康問題を理由に監督を退任し、シニアディレクター職に転ずる。また、星野に招聘されたコーチ陣のうち、島野育夫はフロントに転出して管理部長、オマリーは駐米スカウトとして球団に残ったが、田淵幸一達川光男西本聖は退団した。さらに前年と同様、同オフに所属選手の解雇・放出も断行した。

2004年から岡田彰布が監督に就任。ドラフト自由枠で獲得した鳥谷敬を抜擢するなど戦力の増強を図ったものの、主力選手の不振と安藤優也・ウィリアムスのアテネ五輪出場による離脱、マイク・キンケードの期待はずれの不振、ジェロッド・リガンの負傷による離脱で大幅な戦力低下が響いて4位だった。シーズン後、藪恵壹がFAでオークランド・アスレチックスへ移籍し、2003年リーグ優勝の立役者となった伊良部・アリアス・リガンを戦力外とした。

2005年はウィリアムス・藤川球児久保田智之JFK桟原将司橋本健太郎江草仁貴など救援投手陣の活躍、さらにアンディ・シーツ、金本、今岡誠によるクリーンナップが安定した成績を残した。先発投手陣は井川、福原の不振もあってやや不調だったが、それを前述のJFKを筆頭とする強力中継ぎ陣で完全にカバーし、チーム防御率はリーグトップとなった。また、優勝を決定付ける本塁打を放った中村豊、5年連続盗塁王を獲得した赤星、レギュラー初年で2番打者を務めた鳥谷敬、下位打線に座ったシェーン・スペンサーの意外性なども打線の中で大きな役割を担った。この年から導入された交流戦で好成績をあげて首位に立つと、シーズン終了まで1度もその座を譲ることなく5度目のリーグ優勝を飾った。この時、下柳が規定投球回未到達ながら最多勝を獲得するという珍事もあった。日本シリーズでは、千葉ロッテマリーンズと対戦するも4連敗で日本一を逃す。

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2006年は最後まで中日との優勝争いを繰り広げ、シーズン終盤に9連勝したものの、今岡の不振、久保田の負傷などが響いて2位となった。しかし、1985・1986年以来20年ぶりに2年連続のAクラス及び球団初の2年連続80勝を達成し、05年から実施された実数での観客動員数は2年連続で300万人を超え、1試合平均観客動員数は12球団一の4万3,000人だった。オフに井川がポスティングシステムニューヨーク・ヤンキースへ移籍したため、MLBからエステバン・ジャンライアン・ボーグルソン両右腕を獲得するなど、井川の穴を埋めるための補強を進めた。

2007年は4月から5月にかけて先発・打撃陣の不振で9連敗を喫し、交流戦でも9勝14敗1分の10位と低迷して借金は最大で9を抱えたが、リーグ戦再開後は少ない打点をJFKら中継ぎ陣が守る野球で、上位の巨人・中日と戦った7月の13戦を10勝3敗で切り抜け、この月を15勝6敗と大きく勝ち越す。8月の長期ロードも12勝8敗1分で2年ぶりに勝ち越し、シーズン終盤には10連勝して一時首位に立った。しかし、9月後半にJFKが失点を許す場面が目立ち、さらに先発・打撃陣ともに不振に陥って8連敗を喫するなど失速し、最終的には3位に終わった。クライマックスシリーズ第1ステージではリーグ2位の中日と対戦したが2連敗で敗退した。この年は、先発陣の完投杉山直久能見篤史上園啓史による3回だけ(12球団最少)で、2003年のオリックス・バファローズ以来4年ぶりに、規定投球回数に到達した投手がいないという事態が起きた。さらに打率得点も12球団中最下位だった。その一方で桜井広大坂克彦庄田隆弘狩野恵輔ら若手選手が一定の活躍を見せたシーズンでもあった。オフには3年間阪神の中軸として活躍したアンディ・シーツが現役を引退した。また、FAで広島から新井貴浩、トレードでオリックスから平野恵一日本ハムから金村暁、MLBからルー・フォードを獲得するなど積極的に選手補強をした。

2008年はシーズン序盤から首位を独走し、5月6日の対巨人戦ではプロ野球史上2球団目の通算4500勝を達成し、さらに7月8日時点で巨人に最大13ゲーム差をつけ、同22日には優勝マジックを点灯させたが、主力の新井貴浩・矢野・藤川を北京オリンピック出場によって欠き、今岡、さらに藤川の代わりに抑えを務めていた久保田の不振、オリンピック後は新井の腰痛、前年から続く先発陣の弱さも重なって、中継ぎエースのJFK3人に過度に依存する試合運びとなり、猛烈な追い上げを見せた巨人に10月8日の直接対決最終戦で敗れ、巨人に優勝をさらわれる結果となった。13ゲーム差を逆転されての2位はセ・リーグワースト新記録[注釈 3]だった。リーグ優勝を逃した直後、岡田は責任を取るとして監督辞任の意向を表明。クライマックスシリーズ第1ステージではリーグ3位の中日と対戦するが、1勝2敗で2年連続の第1ステージ敗退となった。岡田はクライマックスシリーズ後に正式に辞任し、真弓明信が後任に就いた。

2009年は4月は金本が絶好調だったものの、WBCに出場した岩田稔や正捕手の矢野、先発転向した久保田が故障で開幕に間に合わなかった。さらに新井・鳥谷の打撃不振や新外国人ケビン・メンチの成績不振もあって、巨人や中日に圧倒され前半戦は低迷した。6月にはクレイグ・ブラゼルを獲得。後半戦は新井・鳥谷の復調、能見・桜井の躍進、スコット・アッチソンや藤川などリリーフ陣の活躍もあり、8カード連続勝ち越しを決めるなど、東京ヤクルトスワローズとCS出場をかけた3位争いを演じる。特に後半戦は前半大きく負け越していた巨人との相性が良く、球団新記録となる5カード連続の勝ち越しなどもあり対戦成績を五分に戻し、優勝した巨人相手にセ・リーグ5チーム中で唯一負け越さなかった。しかし、最終戦でヤクルトに連敗、4位に終わり、初めてクライマックス進出を逃す。この年はベストナインゴールデングラブ賞共に受賞者なし、タイトル獲得者もなしで、3つとも受賞者がいないのは1995年以来14年ぶりであり、規定打席数以上で打率3割を超えた打者も2000年以来9年ぶりにいないなど、特に野手陣の不振が目立ったシーズンだった。さらに12球団で唯一5連勝を経験できなかった。オフにシアトル・マリナーズに所属していた城島健司を獲得する一方で、9年間チームを支え続けた赤星がこの年限りで引退し、今岡、ウィリアムス、アッチソン、バルディリス、田中秀太らが退団した。また駐米スカウトのオマリーを外国人選手の不振の引責で解任し、シーツが後任として就任した。

2010年は岩田と能見の故障、安藤や金本の不振などがあったが、新加入の城島やマット・マートンジェイソン・スタンリッジ、ルーキーの藤川俊介秋山拓巳や坂、大和、上本博紀など若手が活躍し、躍進を遂げた。特にマートンは年間214安打の日本記録を樹立し、ブラゼルも自己最高の47本塁打を記録した。また、前年に矢野の代わりに正捕手を務めた狩野が外野の守備にも付く等、新境地を開拓した。レギュラーシーズンの優勝争いは混戦で8月12日の対広島戦では桜井・城島・狩野と共に3者連続本塁打を打って優勝する予感に見えたが、9月になると数日ごとに首位チームが入れ替わる展開となり、9月26日には試合数の関係で首位中日よりも多く残していた阪神(当日試合なし)にマジック8が点灯したこともあった。しかし、マジック点灯後の対巨人戦(9月28日)と対横浜戦(9月30日)に敗れて自力優勝が消え、中日にマジックが移動。10月1日の対広島戦も0-5で完敗したことで中日の優勝が決まり、阪神は2位に終わった。初めて甲子園で行われたクライマックスシリーズ第1ステージでシーズン3位の巨人と対戦したが、第1・2戦ともに先制点を挙げながら逆転されて連敗し、敗退した。また、星野仙一シニアディレクターが、楽天の監督に就任するため退団した。

チーム成績・記録 編集

ファイル:Hanshin Tigers Ranking.svg
  • リーグ優勝 9回 (1937年秋 - 1938年春、1944年、1947年、1962年、1964年、1985年、2003年、2005年)
  • 日本シリーズ優勝 1回(1985年)
  • 年間王者 2回 (1937年 - 1938年)
  • Aクラス 48回 (1936年秋 - 1940年、1942年 - 1948年、1950年 - 1960年、1962年 - 1970年、1972年 - 1973年、1975年 - 1976年、1981年 - 1982年、1985年 - 1986年、1992年、2003年、2005年 - 2008年、2010年)
  • Bクラス 28回 (1941年、1949年、1961年、1971年、1974年、1977年 - 1980年、1983年 - 1984年、1987年 - 1991年、1993年 - 2002年、2004年、2009年)
  • 連続Aクラス入り最長記録 11年(1950年 - 1960年)
  • 連続Bクラス最長記録 10年(1993年 - 2002年)
  • 最多勝利 87勝 (2003年、2005年)
  • 最多敗戦 84敗 (1995年)
  • 最多引分 13分 (1976年)
  • 最高勝率 .829 (1938年春)
  • 最低勝率 .331 (1987年)
  • 最多連勝 14連勝 (1937年秋、1946年)
  • 最多連敗 12連敗 (1998年、1999年)


その他の記録 編集

  • 最小ゲーム差 0.5ゲーム (1937年春、1973年)
  • 最大ゲーム差 37.5ゲーム (1987年)
  • 最多本塁打 219本 (1985年)
  • 最少本塁打 1本 (1944年)
  • 最高打率 .345 (1936年夏)
  • 最低打率 .197 (1941年)
  • 最高防御率 1.53 (1944年)
  • 最低防御率 4.79 (1978年)
  • 連続2ケタ安打 10試合 (2008年)
  • 連続イニング無失点 52(1942年) - 日本プロ野球記録
  • ゲーム最多得点 22得点(2010年8月25日対広島東洋カープ)
  • 最多シーズン安打 1458安打 (2010年)

チーム特徴 編集

テンプレート:出典の明記

球団名称 編集

ニックネームの「タイガース」は阪神電鉄社員の公募によって決定した。この際、何人かが「タイガース」という名称を応募したが、抽選の結果、事業課所属の松原三郎が考案者として認定された。大阪の姉妹都市・デトロイトを本拠地としていたデトロイト・タイガースを参考にして松原がこの名称を応募したとされているが、デトロイト・タイガースとは無関係に「タイガース」というニックネームを考えた者も多数いたと言われている。

このニックネームについては、英語表記「Tigers」の発音は「タイガーズ」のほうが近いが、正式名称は日本語の固有名詞であるため、タイガーズとするのは誤りである。当時の球団名は、複数形のsを英語で「ズ」と発音する場合にも正式名称を「ス」とすることは一般的だった[注釈 4]

その後「タイガース」の名は戦争(太平洋戦争・第二次世界大戦)中の英語が使えなかった時期を除き、一貫して使われてきた愛称である。戦前のプロ野球チームでは「セネタース」「イーグルス」などの愛称があったが、球団の消滅にともないこれらの愛称もなくなり、現在でも使われているものは、2005年に復活した「イーグルス」(正式表記はゴールデンイーグルス)を除けば、「ジャイアンツ」と「タイガース」だけである。

球団名「阪神タイガース」は、親会社が「阪神」電鉄であることと、本拠地である甲子園球場が兵庫県が定める地域区分の一つ。同県南東部の神戸市と大阪府に挟まれた一帯を指す。俗に阪神間(はんしんかん)とも呼ばれる。尼崎市、西宮市、芦屋市、伊丹市、川西市、宝塚市、川辺郡猪名川町、三田市7市1町が含まれるの「阪神」地区に位置していることとの2つの意味をあわせもった球団名である。設立当初は「大阪タイガース」という球団名であったが、タイガース以外にも阪急南海が大阪にあったことから略称として「阪神」が使われており、さらに甲子園球場が大阪府ではなく兵庫県に位置していたため、1961年に改称した。ただし、正式な改称以前にも「阪神タイガース」が通称として使われていた。[注釈 5]

改称以前の1954年に発足したファームの新日本リーグにも、神戸を本拠とした事もあり、阪神ジャガースの名称でチームを組織していた。

球団名を一文字で表記する時は一般的に「」とする。本来であれば略称「阪神」の一文字目「阪」の字を用いるが、かつて存在した阪急(現・オリックス)との混乱を避けるために阪神は「神」、阪急は「急」としていたものが現在でも続いている。

六甲颪 編集

テンプレート:Main 球団歌は「阪神タイガースの歌」(旧:大阪タイガースの歌)である。歌詞の冒頭をとって六甲おろし六甲颪、ろっこうおろし)と呼ばれる。

「阪神タイガースの歌」は球団結成と同時に「大阪タイガースの歌」として作られたもので、戦前から現在まで使われている球団歌は他にない。他球団の応援歌は、歌詞に問題があったり球団が消滅するなどして、どれも現在は使われていないが、『大阪タイガースの歌』だけは歌詞中の大阪という単語を阪神に変えただけで現在も使われている。なお、歌詞中で連呼される感嘆詞「オウ」は大阪タイガースの「大(おお)」と韻を合わせたものだが、球団名を改めた後もそのまま残っている。

試合開催地について 編集

本拠地 編集

テンプレート:Main 設立当初から親会社所有の阪神甲子園球場を使っており、現在のプロ野球で本拠地となっている球場の中では最古である。元々は高校野球開催など、多目的にスポーツ行事で使うことを目的として造られた球場だった。ただし、アメリカ軍に接収されていた1946年のみ使えなかった。1948年フランチャイズ制仮導入以来、一貫して専用球場にしている。専用球場を変更していないのは新設の東北楽天ゴールデンイーグルスを除けばプロ野球の現存球団で唯一である。なお、フランチャイズ制仮導入まではホームゲームを本拠地で行う習慣はなく、甲子園球場や後楽園球場阪急西宮球場などの中から日程上都合のいい球場を選んで行っていた。

甲子園球場は高校野球が先に使っていたこともあり、選抜高等学校野球大会全国高等学校野球選手権大会の日程が優先される。特に後者の大会は2週間以上にわたるため、この時期の長期遠征を「死のロード」と呼ぶようになった。ただし1990年代あたりから、京セラドーム大阪の完成などでその時期も関西での試合が増えているため、死語になりつつある。

二軍の本拠地は、1950年代神戸市民運動場野球場1979年から1993年までは阪神浜田球場、現在は阪神鳴尾浜球場を使用している。甲子園球場と鳴尾浜球場は互いに徒歩圏内にあり、二軍の選手も一軍から声がかかれば自転車でもすぐにファーム本拠地から一軍本拠地に行くことができ、非常に利便性が高い。12球団の中でも一軍の本拠地とファーム本拠地間の距離は埼玉西武ライオンズの次に近く、互いの球場を徒歩で行き来できるのも12球団中では阪神と西武のみである。

地方開催 編集

テンプレート:See also テンプレート:See also 主に関西を中心とした西日本で開催されることが特徴である。現在は京セラドーム大阪で3カード・9試合程度、倉敷マスカットスタジアムで1試合を開催している(マスカットスタジアムができる以前は岡山県野球場で主催試合を行っていた)。以前は京都市西京極総合運動公園野球場でも毎年1-6試合を行っていたが、2005年の対西武戦を最後に主催試合がない。2006年は1試合を予定していたが甲子園球場に振りかえ、2007年はオープン戦すら行っていない。また、1999年には香川県営野球場、2005・2006年には2試合を松山坊っちゃんスタジアムで行っている。甲子園での圧倒的な動員数もあってか、全体的に阪神地区以外での開催試合は少ない。

京セラドーム大阪は1997年の開場以来使っているが、2005年2007年は兵庫県のオリックスが大阪府の近鉄吸収合併したことによる暫定処置で兵庫県・大阪府のダブルフランチャイズとなったため、京セラドーム大阪を準本拠地として使うことが認められていた。開催時期は甲子園での春夏の高校野球が行われる時期、あるいは梅雨時などになっている(交流戦が開催されている2005年以後は梅雨時の開催は行っていなかったが、2009年に交流戦2試合を開催した)。また、2007年より3期に渡って行われた10月以降の甲子園球場の改修工事の影響からスカイマークスタジアムで、2008年には雨天中止分の1試合とクライマックスシリーズ第1ステージが京セラドーム大阪で行われた。2010年にもスカイマークスタジアムでは2試合、2011年に1試合開催される。

京セラドーム大阪開場以前はスカイマークスタジアム(当時はグリーンスタジアム神戸)(1988年1994年)や、阪急西宮スタジアム(旧・阪急西宮球場)(1991年1996年)を夏の高校野球の時期を中心に使っていた。また、甲子園球場にナイター設備が導入されるまでの1953年 - 1955年には大阪球場でナイターを行うことがあった。他にも平和台野球場1980年1988年)、岩手県営野球場郡山市営開成山野球場県営宮城球場藤崎台県営野球場(いずれも1975年)で試合を行っている。

ホームゲームの開幕戦 編集

前述のように甲子園球場での選抜高等学校野球大会の開催のため、タイガースは前々年(2002年以前は前年)にAクラスに入って本拠地開幕権を得ても甲子園で開幕戦を迎えられないことが多い。選抜高校野球大会は毎年3月下旬から4月上旬まで甲子園で行われるが、セントラル・リーグの開幕がこの時期になると当然甲子園でのプロ野球開催が不可能になってしまう。かつては連盟が阪神に配慮して第1節を選抜開幕前、もしくは終了後に設定したというケースがあったが、クライマックスシリーズ導入後は日程面から終了後に開幕を設定される可能性は少ない。なお、甲子園で開催できない場合の対処として以下の4つのパターンがあった(フランチャイズ制が確立し、現行の6球団制となった1953年以降、大阪ドームで開幕戦を行った2005年以前に絞る)。

  1. 前年Bクラスチームの本拠地で開幕を迎える
  2. 前年Aクラスチームの本拠地で開幕を迎える
  3. 地方球場での主催ゲームで開幕を迎える
  4. 地方球場でのビジター試合で開幕戦を迎える
    • 1954年:中津市営球場(大洋松竹ロビンス主催、当時のロビンズは大阪球場が本拠だった)

なお選抜開幕前にシーズン開幕戦を甲子園で開催したのは1956年1964年のみでこれ以外の年は全て選抜終了後に甲子園でシーズン開幕を迎えている。

本拠地に準ずる扱いの大阪ドームの完成後は、パシフィック・リーグの開幕と重なって、且つ大阪ドームを本拠地とするチームが本拠地開幕権を持っていなければ、地元開幕を大阪ドームで迎えられるようになり、2005年、2007年 - 2010年は大阪ドームでの開催となった。2010年の場合、阪神と大阪ドームを本拠とするオリックスの両チームが本拠地開幕権を持っており、同時開幕を前提にしていたため他球場での開催も検討されたが、両リーグの折衝の結果、パシフィック・リーグの日程を変則的にして開幕日をずらすことで決着している。もし同時開催であれば、かつてオリックスが主本拠としていた保護地域(兵庫県)内にある神戸総合運動公園野球場(スカイマークスタジアム)の利用も示唆されていた。

選手・監督の起用に関する特徴 編集

プロ野球ドラフト会議では、長期的視野を要する高校生よりも大学生社会人選手を進んで取る傾向にあり、逆指名制度自由獲得枠希望入団枠といった即戦力を獲得するための制度を最も積極的に使っている(しかし、2004年のドラフト会議で指名した辻本賢人は、ドラフト会議史上最年少の15歳といった例もある)。テンプレート:要出典範囲

監督はチームの生え抜き選手が就任することが多い。しかし、優勝から遠ざかっていた1960年代には藤本定義、低迷が続いた後の1999年以降は野村克也星野仙一といった他球団で実績を残した人材を起用したことで、両時期とも低迷を脱した。

球団マスコット 編集

球団マスコットは次の2つである。ともに、チーム名「タイガース」にちなんで虎をモチーフとしている。初期のトラッキーには初登場の年を表す背番号「1985」があったが、背中には名前だけを書くようになり、「1985」は胸番号に移行した。だが2007年、ユニフォームの大幅モデルチェンジを期に背番号「1985」が復活した。なお、親会社の阪神電気鉄道と関連企業のマスコットとしても使われている。また、2011年シーズンからはラッキーの弟が新しく登場し、現在名前を一般公募中である。

デザイン編集

シンボルマーク編集

  • 球団創立当時から、球団旗・ユニフォームなどに、虎の似顔絵(虎マーク)が使われている。デザインを手掛けたのは阪神電気鉄道デザイン室勤務の早川源一1906年 - 1976年)。
  • 1980年代前半頃[注釈 6]より、虎の絵が入った赤円に黒の輪で囲んだデザイン(黒の輪の上部に「HANSHIN」、下部に「Tigers」がのロゴがそれぞれ白く入っていた)のペットマーク(丸虎マーク)が採用され、出版物や映像作品などで使われている[12]
    • 1981年には、阪神百貨店本店6階のタイガースショップ天井にこのマークの照明が取り付けられている(2004年2月に8階へ移転するとともに、照明もそのまま移設された)[13]
  • 2005年に創立70周年記念マークを採用して以降は、毎年年度別のペットマークも別途使っている。
    • 70周年記念マークには、赤の筆記体による「Tigers」ロゴ(赤に白縁取り)や、若干アレンジされた虎の絵が使われた。
      • 2007年の交流戦用ユニフォームには、上記「Tigers」ロゴ(黄色に黒縁取り)が胸マークに使われた。

球団旗編集

  • 球団創立当時から、黒と黄色の横じま(上から、黒四本・黄色三本交互に構成)をバックに、左上に赤円に右向きの虎の似顔絵が入ったデザインを基本としている。
  • 初期の赤円は若干薄い色。その後、1950年代1960年代辺りには、虎の絵の囲み円が褐色に染められたものや、黄色に黒線で囲まれた円形に正面に向いた虎の絵が描かれたマークの入ったデザインが存在した(選手名鑑に掲載されたり、1966年のオールスターゲームのポスターにも描かれた)。その後、1970年代後半頃には、虎マークなどが現在の形にまで整い[14]小林繁の入団発表でバックに掛けられた旗もこのデザインである〔このときの写真が『阪神タイガース70年史』57ページに掲載されている〕)、1984年10月には、一番下の黄色ラインの右寄り部分に黒色で「HANSHIN」と「Tigers」のロゴが入ったデザインが正式採用された[15]。ただし、正式採用より数年前から使われている[16]

ロゴ 編集

先述の球団旗やホーム用ユニフォームの胸などに描かれる「Tigers」ロゴの書体は1960年に細部が変更されたのみで、創設以来一貫して使われ続けている。

また「Tigers」ロゴは、「HANSHIN」ロゴと合わせて、1962年6月15日には商標登録されている[17][注釈 7]。1982年には、ユニフォームのマークと同じように、整ったロゴが登録されている[18]。日本語表記の「阪神タイガース」ロゴは、1981年4月25日に商標登録出願、1983年10月27日に登録されている[19]

ユニフォーム編集

ユニフォームの変遷 編集

テンプレート:Main2

  • 1936年 - 1940年
    球団創設時は「Tigers」2種類、「OSAKA」1種類のユニフォームを使用。縞帽子はこの頃から登場している。ロゴは黒で縁取りは黄色。
  • 1940年 - 1944年
    軍部の指導によりロゴを漢字の「阪神」(左胸に縦書き)に変更。1944年からは国防色の採用が義務付けられ、グレーの縦縞が廃止される。ホーム用は線を廃止(袖の猛虎マークは消滅しなかったが、戦後に入ってからいったん消滅している)。
  • 1945年 - 1948年
    戦前期の縦縞ユニフォームを復活。しかし、耐用期間が短くわずか3年間で廃止された。
  • 1947年 - 1951年
    縦縞なしの無地で前立て線付きのユニフォームを採用。2リーグ分裂後も使われたが、1951年夏で廃止。
  • 1948年 - 1949年
    ユニフォームの生地に濃紺を採用。
    このユニフォームは縦縞の生地が手に入らなかったために間に合わせで作られたものだが、第1次ダイナマイト打線の時代と重なったこともあって、老若男女問わずファンの認知度は高い。
  • 1951年 - 1953年
    オールスターを境に前立て線の無いユニフォームに変更。ホーム・ビジター共に同一スタイル。
  • 1953年 - 1960年
    伝統の縦縞と白地の縞帽子が復活。
  • 1954年
    ビジター用のロゴが「OSAKA」となる。
  • 1958年
    ロゴの黄色の縁取りがなくなる。ホーム用の白地の帽子とストッキングを廃止し、ビジター用と同じものに統一。
  • 1960年
    ホーム用ユニフォームの「Tigers」の書体が変更になり、胸番号を採用。帽子のマークをOからOTに変更。
  • 1961年 - 1965年
    球団名が「阪神タイガース」になり、ビジター用の胸ロゴを「HANSHIN」に変更。チームの象徴ともいえる帽子のHTマークが登場する。
  • 1962年後期
    ビジター用の胸番号が背番号と同じ丸い書体になる。
  • 1965年 - 1973年
    襟・袖・パンツに太い線がつく。背番号書体がホーム用はゴシックに近い書体、ビジター用は角書体、胸番号がホーム、ビジター共角書体になる。ただし、ホーム用は背番号と書体が異なる。ホーム用の左袖に「OSAKA」が復活、ビジター用は猛虎マーク。
    • 1970年
      猛虎マークが若干変更され、背番号の上にローマ字で選手名が入ったため背番号が小さくなった。オ段の長音は原則として「H」を使用しているが、1977年シーズン途中から1985年頃まで略していた選手が多かった(川藤幸三は「KAWATOH」ではなく「KAWATO」、遠井吾郎は「TOHI」ではなく「TOI」、大倉英貴は「OHKURA」ではなく「OKURA」)。
    • 1972年
      帽子のHTマークの「H」が黄色、「T」が白となる。
  • 1974年 - 1975年
    ニット素材のユニフォームを採用し、帽子のツバ、胸ロゴ、背番号、袖・首・パンツの線に、それまでの黒に加えてチームカラーの黄色が入る。また、ホーム用の縦縞の色がグレーから黒になる。
  • 1975年 - 1978年
    まず1975年にビジター用のユニフォームのみ変更され、地色がグレーからスカイブルー地になり、袖、パンツの線がギザギザ模様のラインになる。このギザギザラインは永井一正がデザインしたもので、「輝流ライン」と呼ばれた。由来には「の牙」と「赤穂浪士の法被」の2つの説がある。
    • 1976年からホーム用もギザギザラインになり、左袖の「OSAKA」のロゴが消え、猛虎マークになる。
      首のライン上に第1ボタンがついている珍しい様式で、ホーム用とビジター用でボタンの素材が異なり、ホーム用は地色と同じプラスチック製、ビジター用は半透明のプラスチック製ボタンであった。
  • 1979年 - 1981年
    ブレイザー監督就任と同時にギザギザラインを廃止し、従来の黒と黄色のラインに変更、ボタン式からプルオーバー式になる。また、ストッキングの黄色の2本線も廃止されて黒一色になる。
    • ホーム用からパンツの線が消え、縦縞が若干太くなる。
      ビジター用は左袖の猛虎マークが「Tigers」のロゴに変わり、1983年には左袖の「Tigers」ロゴが右上がりになる。
  • 1982年 - 2006年
    安藤統夫監督就任により、ホーム用が大幅にモデルチェンジする。チームカラーの黄色が消え、モノトーンスタイルと縞帽子(ツバ、THマークは黒)が復活し、ホーム用のスパイクが白地に黒線になる。途中マイナーチェンジを重ねつつ、基本デザインは2006年の25年間に渡って使った。この間1985年2003年2005年の3度のリーグ優勝を果たした。
    • 1984年 - 2000年
      ホーム用の背番号の書体がゴシックに近い書体からビジター用と同様の角型となる。
    • 1988年 - 1991年
      ボタン型のユニフォームになる。
    • 1992年 - 2000年
      1985年の日本一にあやかり、プルオーバータイプが復活する。
    • 2000年 - 2006年
      ホーム用の縞帽子が、ビジター用と同一のものに統一される。
    • 2000年
      スパイクが黒地に銀のラインとなる。
    • 2001年 - 2006年
      ボタン付きプルオーバータイプ(ボタンが外れるのは上から数個まで、残りは飾り)が復活し、背番号、胸番号の書体が高校野球型になる。
  • 1984年 - 2000年
    ホーム用に2年遅れて、ビジター用を大幅にモデルチェンジする。ホーム用同様黄色が消えてグレーの縦縞となり、首と袖の線が消える。また、帽子が黒地に白のHTマークとなり、ビジター用の胸番号がホーム用と同じ書体になる。
    • 1988年 - 1990年
      ホーム用同様、ボタン型のユニフォームになる。
    • 1988年
      HTマークが白から銀に変更され、ビジター時に着ていた黒地に白線のスパイクが、ホーム同様白地に黒線となる。
  • 2001年 - 2006年
    ビジター用デザインを大きく一新する。縦縞が消え、黒白のラケットラインと袖ラインが入る。また、「HANSHIN」の胸ロゴがピッツバーグ・パイレーツ型のものになり、ホーム用同様に背番号と胸番号の書体が高校野球型になる。
    • 2001年
      この年のみ左袖の虎のマークをモノトーンに変更。翌年から従来のものに戻っている。
    • 2001 - 2002年
      背ネームが入らなかった。翌2003年より復活。
    • 2005年
      左袖の虎のマークが、ホーム用とビジター用ともに球団創立70周年記念のロゴマークに置き換わった。ただし、ホーム用とビジター用で若干配色が違う。
  • 2007年
    大幅モデルチェンジ。ホーム用は25年ぶりの大幅変更となった。チームカラーの黄色が1981年以来久々に取り入れられ、Tigersロゴや背番号等が黄色で縁取られる。わき腹の部分には黒色を配したデザインとなった。ビジター用はホーム用と同じく、わき腹部分に黒色を配したデザインとなる。また、背番号と胸番号の書体が1962年夏 - 1965年まで使われた欧州系の書体を彷彿させるデザインとなった。ラケットラインを廃し、「HANSHIN」のロゴの書体が若干違うタイプが復活。帽子も1974年 - 1981年(ビジター用は1983年まで)に使われたものに変わる。ビジター用は従来の黒帽子のツバのふちに白線が入り、HTマークが銀から白へ戻る。
    • 2008年 - 2009年
      2008年交流戦明けより、ビジター用の帽子のデザインが変更。好評だった交流戦専用のビジター用のもの(後述)を、空気穴とトップのボタンをグレーから黒色にマイナーチェンジの上で引き続き使用。
    • 2010年
      左袖の虎マークが、球団創立75周年記念のロゴマークに置き換わった。ビジター用の帽子が2007年のタイプに戻る。

交流戦専用ユニフォーム 編集

2005年から日本版インターリーグ(交流戦)が開始されたことを受けて、タイガースでは交流戦期間中に限り、専用ユニフォームを着てゲームを行っている。これは交流戦が開始された2005年が球団創立70周年という記念の年に当たること、また、綱島理友1999年から2004年まで週刊ベースボールで連載していた「ユニフォーム物語」で歴代のユニフォームが紹介され、それによって「オールドユニフォームを着て闘う選手の姿が見てみたい」というファンの声が高まったこと、さらに岡田彰布監督の「交流戦では普段見られないものを見せるべきだ」という考えが一致したことによる。なお、選手が実際に使った交流戦専用ユニフォームは、毎年交流戦終了後に行われるチャリティー・オークション落札者プレゼントされ、その収益金は福祉団体などに寄付されることになっている。

2005年はホーム用のみ過去のデザインを復刻させた“復刻版ユニフォーム”を専用ユニフォームとして使用。縦縞に黄色と黒色の縁取りを施した、1979年 - 1981年までのモデルを採用した。ビジターでは復刻版ユニフォームは着ず、通常のビジター用ユニフォームで試合を行っている。この復刻版ユニフォームは好評で、その後他球団へも波及していった。

2006年は「縦縞をビジターでも見てみたい」というファンからの要望が多かったため、2005年度に使った復刻版ユニフォームをビジターの試合で着た。ホームでは逆に、同時期(1979年 - 1983年)にビジターで着ていた水色地のモデルを使用。従って、ホームゲームでは結果的に「ビジター対ビジター」、ビジターゲームでは「ホーム対ホーム」という趣で行われた(東北楽天ゴールデンイーグルス・カラーユニフォーム対決の項を参照)[20]

2007年の交流戦用ユニフォームは復刻版ではなく、服飾デザイナーコシノヒロコがユニフォームをデザイン。70年以上一度も変更されることのなかった胸のロゴデザインが改められ筆記体となり、背番号はかつてコシノが手がけた近鉄のユニフォームと同じ書体になった。どちらも文字は黄色で、ホーム用・ビジター用共に同じものを用いている。藤井寺球場時代の近鉄と同じラグランスタイルが採用されており、ホーム用は白地に黒の縦縞、ビジター用は黒地に黄色の縦縞が入っている。ラグランスリーブは共に黒で、黄色の線が配されていた。

2008年は“リアルタイガー”をコンセプトに、プロ野球界で初めて従来はアップリケだった胸のロゴや袖のマーク・背番号を生地に印字することで、これまでよりも100グラム軽い約400グラムに軽量化。より“虎”をイメージしたデザイン面は、伝統のタテジマの幅を倍の5ミリにしてグラデーション加工を施し、場所によってシマの濃さが変わる。さらに「流線形」でスピード感を表すように、すそや胸のロゴに向かって色が薄くなっている。帽子はホーム用は空気穴とトップのボタンを黄色にした交流戦限定型で、ビジター用はホーム用の黄色の部分全てにグレーが用いられた。なお、このユニフォームはキャンプ中に岡田監督が自ら提案した。

2009年は3年ぶりに復刻版ユニフォームを使うことになり、1985年にタイガースが日本一になった当時のユニフォームが選ばれた。デザインは「ユニフォーム」の1984年-を参照の事。なお、2009年の復刻版ユニフォームは当時と同じくプルオーバータイプとなっている(2005年・2006年はプルオーバーではなくボタンありのもので、当時のものとは微妙に異なる)。一方、ホーム用のスパイクは当時は白だったが、2009年は通常のユニフォーム同様、黒だった。

2010年は「輝流ライン」入りの復刻版ユニフォームを採用する。デザインは「ユニフォーム」の1975年-1978年を参照の事。

交流戦以外の専用ユニホーム 編集

2010年8月にセ・リーグ主催で行なわれる「オールドユニホームシリーズ」では1リーグ時代の「濃紺ユニホーム」が復刻された。デザインは「ユニフォーム」の1948年-1949年を参照の事。

関西代表球団への過程 編集

阪神タイガースは、セントラル・リーグでは唯一関西に本拠地をおく球団であり、関西では圧倒的な人気を誇る。しかし昭和30年代までは、南海ホークスも関西の人気チームだった[注釈 8]

関西の球団中継数減少 編集

関西の球団のテレビ放送中継は、南海ホークス毎日放送近鉄バファローズ朝日放送阪急ブレーブス関西テレビ放送との間で優先的な放送契約を結んでいた。しかし東京キー局との関係で、関西でも巨人の試合の中継数が優位だった。

関西テレビは読売中心の方針が強く、阪急が好調でも「阪急のカードを押し出すことは容易な業ではなかった」[21][22]。そのため関西テレビの場合は以前は30試合あった阪急戦の中継は1966年には8試合にまで減った。

一方、毎日放送も1960年代こそ南海戦が事業として欠かせない存在だったが、1970年代には阪神・巨人戦の中継確保に必死となっていた。[注釈 9][注釈 10]

この結果、関西のテレビ局でも巨人戦が恒常的に中継されるようになり、同一リーグに所属するチームとして巨人と年間を通して対戦するタイガースも、マスコミへの露出が関西の他球団に比較して多くなった。

さらに1969年開局のサンテレビ(神戸市)が、開局直後から編成の目玉としてタイガース戦の完全中継『サンテレビボックス席』の放送を開始した。同局の視聴可能エリアは大阪府下の相当な地域を含む阪神地区全域を含んでおり、またその後関西圏の独立UHF各局へのネットも開始され、テレビで身近に観戦できる環境が整ったことが関西でのタイガース人気に大きく貢献した[23]

タイガース人気向上に伴い、従来は阪神の試合は対巨人戦しか放送していなかった関西大手テレビ局も積極的に阪神の他の試合も放送するようになり、関西でのプロ野球放送は阪神への一極集中化が進んだ[注釈 11]

このような人気が背景にあるため、タイガース関連の記事はしばしばスポーツ新聞の関西版の1面を飾り、1面以外のページでも大きく扱われることが多い。そのため、地元兵庫県に本社を持つデイリースポーツではタイガースが勝った翌日、デイリースポーツの「ー」を虎のしっぽで表記している[注釈 12]

1985年10月16日、関西テレビ放送が中継し、21年ぶりに阪神の優勝が決まった明治神宮野球場での対ヤクルトスワローズ戦の関西地区での視聴率は56.7%(ビデオリサーチ調べ)だった。これは関西地区のプロ野球中継の最高視聴率である。

球団の伝統 編集

時代に合わせて本拠地球場・応援歌など球団のあり方を変化させてきた読売ジャイアンツなどの他球団に対し、各節で前述した通り、タイガースは伝統を重んじるとして大きな変更を行っていないテンプレート:要出典

また、プロ野球最初の公式リーグ戦の1936年春から現在まで戦争による中断を除いた全公式シーズンに参加し、かつ創立当時から親会社が変わっていないのはタイガースのみである。同様の球団は他に読売ジャイアンツがあるが、アメリカ合衆国遠征のために1936年春のシーズンを欠場している。タイガースのように、非常に長い期間経営母体が変わらずに存続するプロ野球チームというのは、世界的にも極めて少ない(2006年(平成18年)5月30日から阪神電気鉄道株の株式公開買い付け(TOB)を実施。6月19日にTOBは成立し、阪神電鉄を子会社化。10月1日に株式交換で完全子会社化し、合併し阪急阪神ホールディングス株式会社なので実際は親会社が変わっているとみてよい)。テレビ中継などでは阪神対巨人は「伝統の一戦」と紹介される。

幾つかの特有の伝統行事も持つ。代表的なものとして、タイガースが全選手・監督・コーチをそろえて毎年キャンプイン前の1月に廣田神社(武運長久⇒優勝を祈願)に参拝する行事は、球団創立時からの伝統である[24]。また、現在では開幕前の3月に西宮神社(商売繁盛⇒球団収益を祈願)に参拝することも伝統行事となっている。

阪神ファン・応援スタイル 編集

テンプレート:See

スポンサー 編集

セ・リーグでは、各球団の申し合わせにより、2002年からホーム用ユニフォームに限定して、スポンサー広告を掲載できるようになった。

  • ユニフォーム袖 Joshin(2003年 - )
  • ヘルメット Joshin(2003年 - )
※2002年には、あしなが育英会のマークが入っていたが、これはスポンサーではなく、球団がボランティアで掲載したものである。

そのほか、甲子園と京セラドームでのホームゲームで阪神が勝った場合に「ヒーロー賞(マン・オブ・ザ・マッチ相当)」が阪神百貨店協賛で表彰され、当該選手全員に阪神百貨店の商品券(インタビュー後に目録のプレートを掲げる)が贈呈されている。

歴代監督 編集

  • 1936年春 - 1936年夏 : 森茂雄
  • 1936年秋 - 1939年 : 石本秀一
  • 1940年 - 1941年 : 松木謙治郎(第1次)※1
  • 1942年 - 1944年 : 若林忠志(第1次)
  • 1946年 : 藤村富美男(第1次)※2
  • 1947年 - 1949年 : 若林忠志(第2次)
  • 1950年 - 1954年 : 松木謙治郎(第2次)
  • 1955年 : 岸一郎
  • 1955年 - 1957年 : 藤村富美男(第2次)
  • 1958年 - 1959年 : 田中義雄
  • 1960年 - 1961年 : 金田正泰(第1次)※3
  • 1961年 - 1965年 : 藤本定義(第1次)
  • 1966年 : 杉下茂
  • 1966年 - 1968年 : 藤本定義(第2次)
  • 1969年 : 後藤次男(第1次)
  • 1970年 - 1972年4月21日 : 村山実(第1次)
  • 1972年4月22日 - 1974年 : 金田正泰(第2次)
  • 1975年 - 1977年 : 吉田義男(第1次)
  • 1978年 : 後藤次男(第2次)
  • 1979年 - 1980年 : ドン・ブレイザー
  • 1980年 - 1981年 : 中西太
  • 1982年 - 1984年 : 安藤統男※4
  • 1985年 - 1987年 : 吉田義男(第2次)
  • 1988年 - 1989年 : 村山実(第2次)
  • 1990年 - 1995年7月23日 : 中村勝広
  • 1995年7月24日 - 1996年9月11日 : 藤田平
  • 1996年9月12日 - 1996年末 : 柴田猛
  • 1997年 - 1998年 : 吉田義男(第3次)
  • 1999年 - 2001年 : 野村克也
  • 2002年 - 2003年 : 星野仙一
  • 2004年 - 2008年 : 岡田彰布
  • 2009年 - : 真弓明信

太字は優勝達成監督

※1 ここから阪神
※2 ここから大阪タイガース(第2次)
※3 ここから阪神タイガース
※4 1984年6月13日 - 6月15日は佐藤孝夫が監督代行

永久欠番 編集

永久欠番は以下の3つとなる。実績・功績はそれぞれの項目を参照のこと。

欠番扱い 編集

  • #02 松永浩美
    • 1993年に所属した松永浩美がシーズン途中から背負った02については、その後日本野球機構が0と00を除く0番台と100番台以上の番号を支配下登録選手には使わない方針に変更したため、今後使われることはないと考えられる。

ノーヒットノーラン達成者 編集

阪神ではこれまでに球団史上9人の投手がノーヒットノーランを達成している。

年月日選手名スコア相手球場
1940年8月3日三輪八郎1-0巨人大連
1946年6月16日呉昌征11-0セネタース西宮
1948年8月24日梶岡忠義3-0南海神宮
1952年5月7日真田重男12-0広島甲子園
1965年6月28日G.バッキー7-0巨人甲子園
1973年8月30日江夏豊1-0中日甲子園
1992年6月14日湯舟敏郎6-0広島甲子園
1998年5月26日川尻哲郎2-0中日倉敷
2004年10月4日井川慶1-0広島広島

特に江夏のケースは、11回裏に自らサヨナラホームランを放ってノーヒットノーランを達成するという名勝負となった。延長でのノーヒットノーランはこれが唯一の記録である。完全試合達成者は球団創設から現在までなし。

歴代の球団歌・応援歌 編集

公式の球団歌はこの「タイガースの歌」(通称:六甲颪[注釈 13])だけだが、その他に球団応援歌も多数ある。

他多数

主なキャンプ地 編集

キーワード 編集

ミスタータイガース 編集

テンプレート:Main 元は、球団創設時から在籍し、1940年代後半に不動の4番打者となった藤村富美男が初代。藤村の引退後は村山実田淵幸一掛布雅之が称された。

ダイナマイト打線 編集

テンプレート:Main タイガース打線の代名詞。1946年日刊スポーツの記者が命名し[25]1947年の優勝時に広まった。1940年代後半を第1次、優勝した1985年2003年をそれぞれ第2次、第3次という(命名前の1930年代後半を第0次と呼ぶこともある)。

バックスクリーン3連発 編集

テンプレート:Main 1985年4月17日、vs巨人戦(甲子園球場)でのこと。7回裏、槙原寛己からランディ・バース掛布雅之岡田彰布がバックスクリーンへ3者連続本塁打を放ち、阪神の21年ぶりとなるリーグ優勝への勢いを決定付けた。2003年5月9日、vs横浜線(横浜スタジアム)での3回表、吉見祐治から濱中治片岡篤史ジョージ・アリアスがレフト方向に3者連続でホームランを放った(平成の3連発)。

加えて2006年9月30日山形県野球場で行われたファーム日本選手権のvs千葉ロッテマリーンズ戦でも、1回裏にエンタイトルツーベースで出塁した赤松真人を2塁に置き、成瀬善久から喜田剛桜井広大藤原通が本塁打を放った。この3者連続ホームランは2006年度ファーム日本一を決定付ける3連発となり、この時の安打は全てスタンドインという稀なケースでもあった。

いろは順背番号とポジション順背番号 編集

1936年春、設立したばかりのタイガースは在籍していた選手17名の背番号を名前のいろは順で決めた。ただし、若林忠志佐藤武夫は、当初与えられた背番号4と背番号13は縁起が悪いと考え、空き番号だった18、19にそれぞれ変更している。エース若林が偶然付けた18番は、後にエースナンバーと呼ばれるようになった。

1950年、リーグが分裂し、ファームの結成などの改革を行ったタイガースは背番号をポジション別に改めた。1 - 8が投手、9 - 11が監督、助監督、主将、12 - 14が捕手、15 - 20が内野手、21 - 24が外野手、それ以降をファームの選手とした。9 - 11が捕手に使われていないのは、1リーグ時代からの功労者である背番号9の松木謙治郎と背番号10の藤村富美男の番号を変えないように配慮したためである。

11は不吉な背番号? 編集

村山実は入団した際に「背番号11はやめておけ」と周囲から言われたというエピソードがある。村山以前に11を付けた選手は、故障を含めて何らかの形で必ず不幸な目に遭い、11は不吉な番号といわれていたからである。

11を最初につけたのは藤井勇1935年 - 1939年1942年)。藤井は戦前のチームの中心打者だったが2度も召集され、戦後はパシフィックに移籍したためにタイガースへ復帰出来ずに野球人生を終えた。2代目の野崎泰一1946年 - 1949年)は満足な成績を残せないところに肩痛が襲い、最後の年に3へ変更する。3代目の御園生崇男1950年)は15からの変更だったが、前年に悪化していた体調がさらに悪化したため翌年元に戻す。4代目の三船正俊1952年 - 1954年)はエースとして期待されていたが炎上癖が仇となって東映フライヤーズにトレード移籍。5代目の山中雅博1955年)は50から変更した途端に体力不足に見舞われて退団、6代目の内司正弘1957年)も40から変更した途端に退団している。

大学で村山の先輩にあたる御園生は「自分がつけていた背番号15を譲るから、絶対に11はつけるな」と説得したが、村山は「自分は昭和11年生まれなので、あくまでも11にこだわりたいんです」と頑としてはねつけている。結果的に自身の活躍でジンクスを跳ねのけた村山は、自らの手で背番号11を永久欠番にした。

伝統の一戦 編集

主にマスコミなどで、対読売ジャイアンツ戦を「伝統の一戦」と表現されることがある。「西の景浦、東の沢村」「(職業野球は)沢村が投げて、景浦が打って始まった」とも呼ばれ、戦前の野球ファンの注目の的となった。

1936年にプロ野球が始まって以降、11シーズン中8度の優勝を果たしていた巨人に対して、阪神は残り3シーズンで優勝を果たすなど、プロ野球を代表する強豪同士であったといえる。しかしその後は阪神の長い低迷もあり、2006年までの通算成績は阪神の692勝902敗57分で、72シーズン中の7割以上に当たる52シーズンで巨人に負け越している。

2003年・2005年は阪神がリーグ優勝を達成したが、逆に巨人がその間に球団史上初となる4年連続で優勝を逃しており、どちらかに一方的なシーズンであることが多い。それでもこのカードが「伝統の一戦」と表現されるのは単純な勝敗を超えて、戦前の野球ファンの注目の的となった「沢村 vs 景浦」に始まり、ミスタータイガース・村山実 vs ミスタージャイアンツ・長嶋茂雄」「奪三振王・江夏豊 vs 本塁打王・王貞治」「ミスタータイガース・掛布雅之 vs 巨人のエース・江川卓」といった人気選手同士の真剣勝負など、日本を代表する人気球団同士のライバル関係も同時に示しているからである。

一方、中日ドラゴンズは阪神と2ヶ月違いに発足した同季発足のチームで、優勝回数でも2009年シーズン終了現在、セ・リーグ6チームの中で2番目に多い(阪神は2番目に少ない)にもかかわらず、対中日ドラゴンズ戦は伝統の一戦と呼ばれない。

年度優勝決定戦と太平洋ホームラン 編集

1936年秋は複数大会開催による勝ち点制だった。各大会ごとに単独1位のチームに勝ち点1、同率1位のチームに勝ち点0.5を与え、6大会の勝ち点の合計でシーズン優勝を争った。タイガースは最後の東京第2次リーグ戦(第2次東京大会)を残して勝ち点2となり、首位の巨人の勝ち点2.5に迫っていた。第2次東京大会ではタイガースと阪急が1位を争っていたが、巨人が故意に阪急に敗退する公認の八百長試合を行ったことで、タイガースは単独1位を逃し、勝ち点2.5で巨人と並んだため年度優勝決定戦を行うことになった。

12月に洲崎球場での年度優勝決定戦では1勝2敗で惜敗したものの、景浦が打者として12打数6安打、投手として13回を自責点1に抑える驚異的な活躍をみせた。特に第1戦で沢村栄治から放った場外本塁打は東京湾に落ち、「太平洋ホームラン」と呼ばれた。当時のボールは本塁打さえ滅多に出ないほど飛びにくいものである上、魔球として知られる沢村の三段ドロップを打ったものであった。

1936年秋の優勝決定戦では破れたものの、1937年秋のシーズンに初優勝して臨んだ春優勝チーム・巨人との年度優勝決定戦(7戦4勝制)では、沢村を打ち崩して4勝2敗で前年の雪辱を果たした。さらに翌年春のシーズンを制して迎えた年度優勝決定戦ではまたも巨人と対戦し、初戦のサヨナラ勝ちで勢いに乗り4連勝で年度連覇を果たした。同年限りで2シーズン制は終了し、年度優勝決定戦は廃止された。

なお、1937年と38年の日本一はリーグの通算優勝回数には数えられていない。これはこの2年間のリーグ戦はそれぞれ独立したシーズンであるためで、阪神の通算優勝は1937年秋季大会、1938年の春季大会でそれぞれカウントされている。

世紀の落球とV9 編集

1973年、8連覇中の読売ジャイアンツと激しい優勝争いをしていた。8月5日の対読売ジャイアンツ戦で、9回2死から池田純一が平凡な中飛を落球して逆転負けを喫した[26]。その後、8月30日に江夏がノーヒットノーランを達成したことで中日ドラゴンズの優勝を消滅させたが、翌日には読売が首位に立った。10月10日の対読売ジャイアンツ戦(後楽園)では、田淵幸一倉田誠から逆転満塁本塁打を放ち、江夏が抑えて勝利、流れは阪神に傾いたかに見えたが、翌日は7-0とリードしながら巨人が追い上げ、逆転に次ぐ逆転で10-10の引き分けに終わった。

残り2試合を残して僅差の首位、あと1勝で優勝というところまで迫っていた10月20日の対中日ドラゴンズ戦(中日球場)では、中日キラー・上田の先発が予想されたが、金田正泰は裏をかいて先発に守護神・江夏を指名[27]。しかし、これが裏目に出て木俣達彦に本塁打を打たれて勝ち越されると、打線は星野仙一に抑え込まれて2-4で敗戦した[注釈 14]。一方、江夏は自伝『左腕の誇り』(構成:波多野勝、草思社、2001年)の中で、「フロントから19日に球団事務所に呼び出され、『残りの2試合には勝ってくれるな』と言われた」と述べている。

この対中日ドラゴンズ戦の終了間際、球場近くを通る東海道新幹線を巨人選手を乗せた列車が通過したという逸話があり、実際にこの時の試合映像が現存している。選手の1人は車内からスコアボードを見ようとしたが果たせず、名古屋駅到着時にファンが試合経過を知らせ、それを聞いた選手達はムードが明るくなったと伝えられている[注釈 15]

こうして、10月22日(本来は21日だったが雨天で順延)の対読売ジャイアンツ戦(最終戦、デーゲーム)で、その試合に勝ったチームが優勝ということになった[注釈 16]。しかし、約48,000人の大観衆を集めたこの試合も0-9で大敗し、巨人のV9をあっさり許した。16時18分、最終打者のウィリー・カークランドが三振に倒れた瞬間、敗戦とV9を許した不甲斐ない阪神に怒ったファン約1000人が暴徒と化し、一塁側スタンドからグラウンドに乱入、両軍ベンチに向かった。阪神の選手・スタッフは試合終了とともにロッカールームに引き上げて難を逃れたが、巨人の選手はすぐにベンチに退散したものの、王は殴られてベンチ前で倒れ、森はキャッチャーマスクをとられた。巨人の関係者はベンチ裏から脱出して、胴上げもせずに宿舎に引き上げた。選手の退出を知ったファンは三塁側スタンドの巨人ファンと砂や座布団、空き缶などを投げ合って応酬した[28]

また、場外でも16時40分頃に阪神球団関係者の乗った車をファン約500人が取り囲み、「あの試合は何だ!」と車体を揺さぶるなどした[注釈 17]甲子園警察署が設置した警備本部も投石された[29]

この試合は、テレビは読売テレビ日本テレビ系列の全国ネット(解説・村山実)、またABCテレビ近畿広域圏ローカル(中継・植草貞夫、解説・根本陸夫)、ラジオは数局がそれぞれ中継していたが、途中から実況席にも危険物などが投げ込まれ、選手の退出後には200人ほどのファンが襲い掛かってきた[28]。植草、根本らは「放送をやめろ」と怒鳴りつけられたり、空き缶を投げつけられたりした。植草はファンの一人が頭の上にかざしてくれた座布団で防ぎながら放送を続けたが、放送終了(16時38分30秒)までの30秒間は音声が途絶え、画面だけが流された[28]。放送終了後にテレビカメラや当時高価だったVTR機材といった放送機材は徹底的に壊された。テンプレート:要出典範囲。この暴挙のため、優勝の瞬間は鮮明なVTR映像がなく、映画フィルムに転写したもの(キネコ)が残っているのみである。

試合に備えて甲子園署の警察官200人と警備員430人が待機していたが、この騒ぎを鎮めることができなかった[29]。このため兵庫県警機動隊70人が16時50分に出動[28]。追い散らされたファンは機動隊を遠巻きにして「帰れ!」コールを浴びせた。18時過ぎに県警からの要請で金田がユニホーム姿で場外に現れ、「大勢の皆さんに期待されながら、こんな結果になって誠に申し訳ない。選手は一生懸命がんばった。敗戦の責任は私にある。来年は巨人の十連覇をきっと阻んでみせる」とファンに謝罪した。これを受けて、19時にファンは引き上げたが、この騒ぎで警官1名が負傷、ファン4名がケガをした[28][注釈 18]ほか、ファン4名が警察に検挙されている[29]

阪神は優勝を想定して、田淵幸一を起用した日本シリーズ用のポスター[注釈 19]と書かれたマッチを製作したが、両方ともお蔵入りとなり、マッチ[30]は阪神電鉄の保養所で使われていた[注釈 20]

史上最短試合と史上最長試合 編集

1946年7月26日のvsパシフィック戦(阪急西宮球場、1-0で勝利)では、13時15分の開始から14時10分の終了まで試合時間が僅か55分という、日本プロ野球史上最短試合時間記録を達成した。この試合では渡辺誠太郎が5安打・88球で完封勝ちし、パシフィック先発の湯浅芳彰も7安打・93球で完投したが、両軍合わせてファウルが6球しかなかったことがこの記録につながった。

逆に、1992年9月11日に行われた、優勝をかけての直接対決となった対ヤクルト戦(甲子園)では日本プロ野球史上最長の6時間26分という試合時間を記録した。この試合では9回裏、八木裕の打球がレフトフェンスのラバーに当たった上でスタンドに入り、いったんはサヨナラ本塁打と判定されたが、ヤクルト側の抗議により、審判団が協議した結果エンタイトルツーベースに訂正されたが、阪神側がこの判定に抗議して、37分間試合が中断した。結局、延長15回(当時は時間無制限で延長15回引き分け再試合制)3-3の引き分けとなった。なお、この試合を中継していたサンテレビは完全生中継を行い、試合終了時刻となった「午前0時26分」は日本プロ野球史上最も遅い試合終了時刻となった。

2日間で29イニング 編集

2000年5月23日から25日まで甲子園で行われた中日との3連戦。初戦は両チーム無得点のまま延長戦に入り、阪神が延長14回に1−0でサヨナラ勝ちして5時間を超える投手戦を制した。翌日の2戦目も延長戦に入り、15回表に荒木雅博の犠飛で勝ち越した中日が3−2で勝った。2試合の合計イニングは29回[注釈 21]。ちなみに2戦目の試合が終了したのは日付が変わった午前0時2分で、試合時間は6時間2分を記録した。さらに2戦目の終了から17時間58分後に3戦目が開始され、阪神が2−1で勝ち、3連戦を2勝1敗と勝ち越した。この試合も含めると3試合で38回となり、規定が変更されることがない限り、破られることはない。ただし、カードを跨いだ場合は巨人が2005年に3試合で36回を記録している。

投手の偵察メンバー第1号 編集

偵察メンバーとは、相手チームの先発投手が左腕か右腕か判らない時などに、スターティングオーダーの一つの守備位置にその試合で先発しない自軍の投手をダミーとして起用し、相手投手が判った際に別の野手と交代させる作戦。この作戦をプロ野球で初めて使用したのは松木謙治郎で、1950年4月22日に熊本の水前寺で行われたvs中日ドラゴンズ戦では、中日の先発が左腕の清水秀雄か、右腕の服部受弘か迷ったため、メンバー表の1番に左翼手干場一夫と書いて提出。服部の先発が分かると干場に代えて左打者の金田正泰を送った。この策は成功し、金田の二塁打を足がかりに阪神が1点を先制したが、試合は7-9で敗れた。

2度の放棄試合 編集

プロ野球で、複数の試合を放棄試合として没収されたのはパシフィックとタイガースの2チームだけである。パシフィックについては、プロ野球が再開された1946年に戦前までタイガースに所属していた藤井勇らを強行出場させたため、彼らが出場した4試合共に試合終了後に没収試合(試合記録は成立したがスコアは0-9でパシフィックの負け)となっただけで、試合途中で複数回にわたって試合を没収されたのは2度の放棄試合を記録したタイガースだけである。

1度目の放棄試合は1954年7月25日中日大阪球場(当時甲子園には設備がなかったため、ナイターは大阪球場で行った)に迎えた試合。中日が3点をリードした10回裏の攻撃で代打真田重蔵の打席の際に、カウント2-2から空振りした打球を直接捕球したか、落球後に捕球したかをめぐって、協議の上で三振を宣告した審判団に阪神側が抗議。助監督兼任だった藤村富美男は杉村正一郎球審へ暴力行為をはたらいた(肩またはプロテクターを数度突いたとされる)。杉村は藤村に対して退場を宣告したが、それが十分に伝わっていなかった[注釈 22]。監督の松木謙治郎も杉村に腰投げや足払いを仕掛けた[注釈 23]。このときの阪神側の抗議に興奮した観客がグラウンドになだれ込み、1時間7分にわたって試合が中断した。阪神側は連盟への提訴を条件に判定を受け入れ、松木監督が退場を宣告される形で試合が再開されたが、その後藤村は回ってきた自らの打順で打席に立とうとした[注釈 24]。だが、杉村球審が「退場になっている」としてこれを阻止すると再び観客がグラウンドになだれ込み、事態収拾が付かなくなった。観戦していたリーグ会長の鈴木龍二の指示により、ホームチームのタイガースに責任があるとして没収試合となった。この没収試合に対してリーグは7月31日に、藤村には出場停止20日制裁金5万円、松木監督には出場停止5日制裁金3万円、松木退場後の監督代行だった金田正泰主将には戒告の処分をそれぞれ下した。

2度目は1967年9月23日、地元甲子園に大洋を迎えた試合。1回表に大洋が3点を奪い、なお2死満塁で森中千香良を打席に迎える。2ナッシングからジーン・バッキーの投げた3球目を森中は空振りし、捕手和田徹がショートバウンドで捕球し森中にタッチしようとしたが、森中はベンチに引き上げようとしていたため「1塁に行く意思がない」と判断。森中にタッチ、本塁を踏む、1塁送球のいずれも行わずにボールをマウンドに転がしてベンチに引き上げた。これを見た大洋ベンチは森中に1塁に走るよう指示し、3塁走者の松原誠には本塁突入を指示。松原が生還したことで大洋に追加点が入った。ここで大谷泰司球審が阪神ベンチへ行き、藤本定義監督に「今のは3ストライクのジェスチャーで、アウトの成立ではない」と説明(ルール上、この場面では振り逃げが成立するため、スリーストライクをとられた時点ではアウトとならないが、打者が振り逃げを放棄した動作をした場合は、アウトになる)し、阪神ナインに再び守備につくように命じた。これに対し藤本は「スリーアウトと言ったから和田は引き上げた」と反論し、後藤次男・山田伝両コーチを交えて抗議。その際に大谷の胸を何度か突いた。33分間の中断後、大谷が「暴行を働いた藤本監督を退場させることを条件に試合を再開する」と説明したが、これに対して阪神側の態度が再び硬化。その後も阪神ナインは守備に就くことを拒否し続けたため、放棄試合が成立した。

2005年にも放棄試合になりかけた試合があった。9月7日ナゴヤドームで行われた首位の阪神と阪神を2ゲーム差で追う2位の中日との首位攻防戦。シーズン終盤での天王山決戦という優勝の行方を大きく左右する重要な一戦だっただけに、1点を争う緊迫した試合展開となった。3-1で迎えた9回裏、抑えの久保田智之が打たれて無死2・3塁となり、谷繁元信が打った2塁ゴロを2塁手の関本健太郎が本塁に返球したが、クロスプレーの判定はセーフとなり、3塁走者のアレックス・オチョアが生還した。この直前の9回表にも、同様の微妙な判定で中村豊が本塁でアウトになっていたため、アレックスへの判定に対して岡田彰布が猛抗議し、選手全員をベンチに引き上げさせた。その際に、橘高淳に暴力行為を振るおうとした岡田を止めに入った平田勝男が橘高を突く形になり、退場処分を受けた。結局、牧田俊洋球団社長が岡田を説得し、試合は18分間の中断後に再開された[注釈 25]その後、中日が井上一樹の犠飛で同点に追い付き、試合は延長戦にもつれ込んだが、阪神が延長11回表に中村のソロ本塁打で勝ち越し、4-3で勝利した。

佐野事件 編集

1977年4月29日川崎球場でのvs大洋ホエールズ戦で起きた事故。阪神が7-6とリードした9回裏1死1塁、大洋の清水透が打った大飛球を左翼手の佐野仙好がフェンスに激突しながらも好捕した。しかし、当時の川崎球場のフェンスはコンクリートが剥き出しだったため、佐野は頭蓋骨を陥没骨折して、ボールを捕球したままうずくまった。左翼線審の田中俊幸は捕球を確認してアウトを宣告し、担架を要請した。佐野は目を剥いており、ただ事ではないと思った中堅手・池辺巌も外野から同様の合図をしたため、(重傷者が出たのだから当然ボールデッドになるものと思っていた)選手・コーチが佐野に駆け寄った。その間に、一塁走者の野口善男がタッチアップして本塁に到達し、7-7の同点となったが、吉田義男は「突発事故の発生によりタイムが宣告されるケースだから得点は認められない」と田中に抗議したが、審判団は「守備側プレーヤーの負傷ではプレー中にタイムを宣告することができない」として抗議を退けた。結局、吉田は提訴試合とすることを条件に試合再開に応じ、試合は時間切れのため7-7の引き分けに終わった。提訴を受けたリーグは「この件は規則に定められた突発事故に当たらない」と結論づけ、阪神の提訴は取り下げられた。

野球規則5.10 (c) には「突発事故によりプレーヤーがプレイできなくなるか、あるいは審判員がその職務を果たせなくなった場合(球審は"タイム"を宣告しなければならない)」とある。しかし同時に、同5.10 (h) に「審判員はプレイの進行中に、"タイム"を宣告してはならない。ただし、本条 (b) 項、 または (c) 項の〔付記〕に該当するときは、この限りではない」となっている。(b) 項は「ライトの故障のために、審判員がプレイを見るのに困難となるか不可能となった場合」であり付記もライト故障に準じるものである。(c)項付記は「プレイングフィールド外への本塁打、または死球の場合のように、一個またはそれ以上の安全進塁権が認められた場合、走者が不慮の事故のために、その安全進塁権を行使することが出来なくなったときは、その場から控えのプレーヤーに代走させる事ができる」という攻撃側の突発事故を想定したものとなっている。つまり審判が試合中にタイムをかけられるのはこの2つに限られ、佐野負傷という守備側に問題が発生した状況は野球規則上に書かれている審判がタイムをかけられる状況には当たらず、タイムを宣告しなかったのは規則に則った正しい処置だった、と結論付けられた。

しかし、規則上は正しい処置ではあったとしても人道上の問題ありとして規則が再検討され、人命に関わるような事態の場合にはプレイ中であっても審判がタイムを宣告できるように内規が定められた。この事件以降、川崎球場をはじめとしたフェンスが剥き出しになっていた球場は安全のためにラバーを張ることとなった。

佐野は、グラウンド内に乗り入れた救急車で病院へと運ばれて一命をとりとめ、復帰して1985年の優勝にも貢献した。

「阪神優勝」のロゴ商標問題 編集

18年ぶりのリーグ優勝で大きく話題になった2003年に、千葉県在住の男性が「阪神優勝」の商標登録届を出し、Tシャツや靴下などの商品を全国量販店などで発売したが、阪神タイガースの商標権侵害の恐れがあるとして球団と係争となった。男性は「阪神地区の優勝の意味」と主張したが、同年末に特許庁は商標を無効とする判断をした。なお、この男性は同時に「巨人優勝」の商標登録を申請したが、即座に却下されたという。

JFK 編集

テンプレート:Main 阪神タイガースにおいては、ジェフ・ウィリアムス藤川球児久保田智之の3名のことを指す。

村上ファンドと阪神電鉄の阪急との経営統合 編集

テンプレート:Wikinewshas

村上世彰率いる投資会社MACアセットマネージメント」(通称・村上ファンド)が2005年に阪神電鉄の株式を買い増しし、電鉄の筆頭株主になった。村上ファンド側は「既成権力に立ち向かう反骨精神や関西人の気骨がグループ全体に影響をもたらすだろう」として、タイガースの株式上場を提案。これに星野仙一シニアディレクターは「タイガースはファンのもの」だと反論し、更に牧田俊洋球団社長も「株式上場の計画はない」とコメント。2005年10月11日に村上と阪神電鉄首脳が会談を行い、村上は「(タイガースの株式上場は)ファンの意見を聴いた上で考慮したい」とコメントした。

2006年6月19日阪急電鉄等を傘下に持つ阪急ホールディングスがTOBで、村上ファンドが保有する阪神電鉄株式を取得。その後、阪急ホールディングスは阪神電鉄を子会社化した(阪急・阪神経営統合参照)。

経営統合の話し合いの中で、タイガースに関しては「阪神タイガース」のままで存続することになったものの、これが7月5日に行われたプロ野球オーナー会議で、阪神電鉄から阪急阪神ホールディングスに経営スポンサーが変更される「経営譲渡」と見なされ、阪急阪神ホールディングスは加盟料30億円の支払いを課されることとなった。しかしこの決定には十分な論議がなされておらず、阪神側は阪急阪神ホールディングとしては球団にかかわらないことになったことを主張し、この対応を不服として再検討を要求した。この主張はほぼ認められ、同年末に加入手数料として1億円のみの支払いとなることが決定された。

関連項目 編集

阪神タイガース私設応援団関係編集

関連放送メディア編集

関連番組編集

終了

ホームとビジターゲームの中継制作局・番組編集

ホームゲームのみの中継制作メディア編集

地元ケーブルテレビ局編集

阪神タイガースをテーマとした作品編集

注釈 編集

  1. 日本運動協会天勝野球団、大日本東京野球倶楽部に続く日本で4番目のプロ野球チーム日本運動協会の後身として発足した宝塚運動協会を別個の球団として扱うと5番目、セミプロの大阪毎日野球団(1920年 - 29年)も含めると6番目。
  2. 同様の事件が2001年9月30日のダイエー対近鉄で発生し、55本塁打を打っていた近鉄のローズがダイエーから連続敬遠四球を受けてシーズン最多本塁打記録の更新を果たせなかったが、その時のダイエー監督がまたも王貞治だった。当時の川島廣守コミッショナーは翌日に異例のコミッショナー宣言を出し、個人記録への妨害を意図する行為の排除を強く求めた。
  3. それまでの逆転ゲーム差のセ・リーグワースト記録は、1996年に巨人に逆転された広島の11.5ゲーム差だった。なお、プロ野球ワースト記録は、1963年に西鉄ライオンズに逆転された南海ホークスの14.5ゲーム差である。
  4. 本来の英語では複数形のsを「ス」と発音するのは、単数形の語尾が無声音の場合だけであるが、戦前の日本の球団名ではタイガースのほかにイーグルスセネタースがやはりあえて清音としている。戦後の命名ではセネタース阪急ブレーブス松竹ロビンス近鉄パールス東北楽天ゴールデンイーグルスがこれに該当する。
  5. 1950年の開幕前に甲子園球場で開催されたオープン戦「大阪市長杯」で全チームが参加した入場行進の写真に、「阪神タイガース」のプラカードが写っているのが確認できる(鈴木龍二『プロ野球と共に五十年(上)』(恒文社、1984年)の口絵に収録)。
  6. 綱島理友監修の書籍『スポーツマスコット図鑑』〔2009年発行〕では、”1984年ごろ”と記述
  7. なお、特許電子図書館ウェブサイトでも確認できる商標画像は、手書きでなされたものである。
  8. 井上章一『阪神タイガースの正体』(太田出版、2001年)によると、阪神は甲子園球場へのナイター設備の設置(1956年)が大阪球場より遅れたことで観客動員が低迷し、1950年代前半は南海の観客動員は阪神を上回った。ナイター設置後も1959年からは3年続けて南海を下回っていた。(同書P76、94〜109)
  9. 1961年に刊行した『毎日放送十年史』では南海との契約が営業に貢献したと記したが、1991年に刊行した『毎日放送の四〇年』の中では1971年に甲子園の阪神・巨人戦の中継枠2試合を確保したことを「"虎の子"の二試合、スポーツ担当だけでなく、全社あげて晴天を祈る気持ちだった。」と記すほど状況は変化していた(『阪神タイガースの正体』P90〜91)。
  10. 南海と毎日放送との契約は、1960年に南海が契約額を引き上げたことから、1961年にはプロ野球中継自体を大幅に削減していた。
  11. 『毎日放送の四〇年』には1970年代の関西地区のプロ野球ファンについて「圧倒的に阪神タイガースのファンが多く、次いで巨人、さらに間をおいて南海、阪急、近鉄である」と記し、その対応として同局が「ナイター中継は阪神、巨人を中心にしたセ・リーグに主眼を置き、パ・リーグ在阪3球団のカードを交え…選ぶのが基本姿勢」との記述がある(『阪神タイガースの正体』P91)。
  12. その一方、読売新聞系の「スポーツ報知」は、スポーツ新聞として唯一、球団発行のタイガース公式イヤーブックに広告が掲載されていない。ただし、同じく読売系列の讀賣テレビ放送の広告は掲載されている。
  13. 書籍「プロ野球12球団全選手百科名鑑」シリーズでは、原則各球団の球団歌を記載しているが、「阪神タイガースの歌」は通称の方で明記されている。
  14. 星野は巨人への反骨心とすでにAクラス入りが決まっていたことから真ん中にボールを集めたといわれるが、カチカチになった阪神打線はこれを打てなかった(詳しくは中田潤の「新庄くんは、アホじゃない!」を参照)。
  15. 山際淳司のドキュメント小説では、新幹線内で選手が持ち込んだラジオの試合中継をナインが聞いており、中日の勝利が決まった途端に王貞治が嬉しさの余り叫んだ、と描写されている。この時の情景は、翌年放映のテレビアニメ侍ジャイアンツ』第38話に取り入れられている。
  16. この試合はプロ野球の公式戦初となる「勝った方が優勝」となる事実上の優勝決定戦だった。
  17. この際、タクシー1台が騒ぎに巻き込まれて車体に損傷を受けている。試合告知の看板への損傷などもあった(上記読売新聞記事による)。
  18. 後藤和昭は「阪神選手は翌日までロッカールームに缶詰めにされた」と語っているが、「19時にファンが引きあげた」という当時の報道とは食い違いを見せている。
  19. 制作時点ではパシフィック・リーグの覇者が決まっていなかったため、「阪神 - パ・リーグ優勝チーム」という表記だった。
  20. 『関西の私鉄』には「(阪神百貨店の)祝優勝のペナント、店員用ワッペンは「その日」のために、倉庫で眠っている」とあるが、これが1985年に使われたかどうかは不明。
  21. 翌年からセ・リーグの規定が改正されて延長は12回までとなったため、このような長時間の試合が見られる可能性は日本シリーズのみとなった。
  22. この詳細については文献によって記述に差異がある。阪神の球団史『阪神タイガース 昭和のあゆみ』(1991年)では、杉村は「そんなことすると退場だぞ」と藤村に言ったが、退場を命じたかどうかが明確でなかったとしている(同書P237)。一方、松木謙治郎の『タイガースの生いたち』(恒文社、1973年)では松木が藤村から「(杉村に)退場はいわれておらず、ただ風呂に入った方がよいといわれた」と聞いたとしている(同書P351)。松木の本にある「風呂」発言につき、大和球士は「風呂に入れという言葉で退場を示唆したのだ」という見解を示している(南萬満『真虎伝』新評論、1996年、P194)。
  23. これは藤村へのペナルティーで連続試合出場が途切れるのを避けるのと、審判への不信感から出た行動だったという(『阪神タイガース 昭和のあゆみ』P237、『タイガースの生いたち』P351)。
  24. これは藤村の独断ではなく、ベンチ裏にいた松木監督が認めた上での行動だった。
  25. 本来は5分以上の抗議は認められていないため、“遅延行為”として岡田監督は退場処分になるはずだったが、処分は受けていない。

出典 編集

  1. 1.0 1.1 球団史1985年度版、9頁。
  2. 読売ジャイアンツでさえ2005年以降は年間300万人を突破したことがない。参照:『my favorite giants』内「巨人主催観客動員数推移」
  3. 参照:『げんまつWEBタイガース歴史研究室』内「阪神タイガース観客動員数」『プロ野球Freak』内「阪神タイガース」(2010年観客動員数)
  4. 球団史1985年度版、43頁。
  5. 球団史1985年度版、79-85頁。
  6. 球団史1985年度版、97-101頁。
  7. 球団史1985年度版、142-149頁。
  8. 球団史1985年度版、195-198頁。
  9. 球団史1985年度版、208-212頁。
  10. 球団史1985年度版、261-262頁。
  11. 球団史1985年度版、383頁。
  12. 登録番号第1543155号、1978年4月24日出願、1982年10月27日登録。
  13. タイガースショップバイヤー・トッシーのとら日記 丸虎マーク天井照明について(2006年4月29日更新分)
  14. 登録番号第1482910号、1976年11月10日出願、1981年10月30日登録。
  15. 登録番号第1727154号、出願日1981年4月25日、商標登録10月31日。
  16. 綱島理友・著、綿谷寛・絵『プロ野球ユニフォーム物語』及び、『阪神タイガース70年史』内記事「綱島理友のタイガース意匠学」(P105)。
  17. 登録番号:第589835号、出願日:1961年5月25日。
  18. 登録番号:第1553794号、1978年4月19日出願、1982年12月24日登録。
  19. 登録番号:第1621729号)。
  20. 雑誌「週刊ベースボール」(ベースボールマガジン社刊)2008年7月28日号11-13ページ復刻ユニフォーム物語」
  21. 永井良和・橋爪紳也『南海ホークスがあったころ』(紀伊國屋書店、2003年)P156〜157
  22. 『関西テレビ放送10年史』(1968年)
  23. 『阪神タイガースの正体』P329。
  24. 球団史1985年度版、44頁。
  25. 球団史1985年度版、269頁。
  26. これは、池田が足もとの悪いセンター付近の芝に足を取られて転倒し捕球出来なかったためとされたが、この年は阪神が僅差で優勝を逃したことから、これを「世紀の落球」と呼ぶようになり、池田は戦犯扱いされた。
  27. この時、オーダー表提出係を担っていた岡本伊三美は、先発投手に「江夏」と書かれているのを見て「本当にこれでいいんですか?」と金田に念押ししている。
  28. 28.0 28.1 28.2 28.3 28.4 読売新聞1973年10月23日23頁
  29. 29.0 29.1 29.2 四国新聞1973年10月23日11頁
  30. 朝日新聞大阪本社社会部編『関西の私鉄』(清文堂、1981年)P178。

参考文献 編集

  • 松木謙治郎「大阪タイガース球団史1985年度版」恒文社、1985年、ISBN 4-7704-0634-7

外部リンク 編集