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若林 忠志(わかばやしただし、1908年3月1日‐1965年3月5日)とは、戦前戦後の大阪タイガースを支えた名投手である。右投右打。また、1942年から1944年、1946年から1949年の間は監督兼任を務めた。

中学、高校はハワイですごし、大学のとき法政大学に進学。社会人野球を経て、1936年の球団発足時のメンバーとして大阪タイガースに入団。7色の変化球と言われた多彩な変化球と、剛速球を武器に活躍する。戦争中は、人材不足から全35試合中31試合に登板し、球団27勝利中21勝(最多勝利)を上げ、阪神軍の優勝を牽引する。

戦後も選手兼任監督として活躍を続けた。しかし、1950年のリーグ分裂にともなう毎日大量引き抜き騒動の中心人物であり、当時選手兼任監督であったにも関わらず毎日に移籍。しかもその時大量の主力選手を連れて行ったので、大阪タイガースは球団壊滅状態に陥った。

そのため、実績のわりに虎党からの人気はない。